『失敗の本質』を語る
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基本情報
書籍名: 『失敗の本質』を語る - なぜ戦史に学ぶのか
ページ数: 280
金額: 900円+税
本の感想
後半おもしろい内容が多かった
最初の50ページくらいはちょっと退屈だった(この本自体が失敗の本質を研究した経緯の話なので) 組織が目指すべき観点が分かりやすく説明されていて良かった
日本が第二次世界大戦で失敗したのが、それ以前の成功体験に特化して過学習しすぎたため、という指摘
アメリカ海兵隊がその存在意義を常に問われ続け、問い続けた結果、変化し続けている、という説明
野中先生の複数の著書を概観できた
本の概要
お勧めの読者
野中先生の著書を俯瞰したい人によさそう
複数の本についての語りなおしで、メタ視点もあるので、誰かにお勧めして読ませる本、ではないなあと思った。
扱っている分野
動機、価格
入手日: 2025/02/26 図書館
入手金額: なし(図書館)
入手フォーマット: 紙
入手動機: NHKラジオ(朝6時40分)マイビズで「失敗の本質」が紹介されていたため 動機は満たされたか: はい
引用
p65より
コンティンジェンシー理論にはいくつかの流れがあります。英国の社会学者トム・バーンズと心理学者ジョージ・ストーカーは、エレクトロニクス企業の事例研究をもとに「環境の不確実性が組織の構造を規定する」という命題を導き出しました。 組織構造には安定した環境のもとでうまく機能する「機械的システム」(官僚制)と、予測が難しい環境に適合する「有機的システム」があります。前者では情報や権限が上位者に集中し、命令や指示を下す形でリーダーシップを発揮します。後者では情報や権限が組織内で分散し、上位者は下位者を支援する形でリーダーシップを発揮します。外部環境の変化が緩やかなら前者、技術革新が盛んで顧客のニーズが多様な環境では、後者が有効です。どちらの組織が有効かは、外部の環境によって異なると主張したのです。
米ハーバード・ビジネス・スクールのポール・ローレンスとジェイ・ローシュの著作『組織の条件適応理論』(1967年)は、コンティンジェンシー理論という呼び名が広く知られるきっかけになった著作です。分化と統合という観点から、組織の構造と業績の関係を探っています。組織内部の状況やプロセスが外部環境に適応していると業績が向上しますが、企業内部の状態、プロセス、外部環境はそれぞれ異なるため、有効な組織に唯一の解はないと結論づけました。
shimizukawa.icon 官僚制の組織には関わりたくない感じ(良い経験をしたことがない)。有機システムで情報を有機的にうまく流通させる方法を知りたい
p74より
私がバークレー校で学び、現在も研究の基盤としている社会科学(社会学)の方法論である「実践的推論」を要約しておきましょう。
観察やフィールドワークを通じて、行為の現場・現象が立ち現れるままに受け入れ、そこから仮説を創出し(アブダクション)、メタファーを使いつつ、背後にある構造や因果関係を発見します。演繹、帰納も駆使し、知識を創り上げるのです。その過程で事物を多面的、複合的に見ながら弁証法的に総合していきます。
帰納(インダクション)=「仮定Aが結論Bを伴う」いくつかの事例を観察し、「Aならば Bである」という法則を推論します。 演繹(ディダクション) = 「AならばBである」という法則から、「仮定AならばBである」という結論を導きます。 仮説推論(アブダクション)は、遡行推論(リトロダクション)とも呼びます。結論Bに法則「AならばBである」を当てはめて仮定Aを推論します。結果からさかのぼって原因を推測する論理です。帰納法が観察可能な事象を一般化するロジックであるのに対し、アブダクションは(多くの場合)観察可能な事象から直接観察することが不可能な原因を推論します。 帰納と演繹を統合、あるいは超えていく試みを通して、帰納でも演繹でもとらえきれない、現象の背後にある真理を把握しようとするのです。
この方法論は、知識を創造したいすべての個人や組織に通用するし、私が後に生み出す 「知識創造理論」のプロセスにも当てはまります。現在のような危機の局面でこそ、この方法論を有効に活用すべきではないでしょうか。
shimizukawa.icon 複数の本で引用されるチャールズ・サンダース・パースのアブダクションが、ここにも登場!開発中には、この3つの帰納、演繹、仮説推論を使って調べたり結論を出したり問題を解決したりすることが多いと思う。 p99
戦略上の失敗要因分析
戦略の失敗の筆頭に挙がるのが、戦略目的のあいまいさです。どんな軍事上の作戦でも、 明確な戦略や目的が存在しなければならず、目的のあいまいな作戦は必ず失敗します。軍隊という大規模な組織を明確な方向性を欠いたまま指揮し、行動させるからです。
ところが、日本軍の作戦計画はかなり大まかであり、細部は中央部の参謀と実働部隊の参謀との間の打ち合わせで詰めるのが通例であったといいます。詰めが甘いままに戦闘に突入すれば、実働部隊が右往左往するのは当然でしょう。
司令部と現地軍は戦略思想を統一する努力をせず、司令部は現地の状況の変化に鈍感でした。現地軍が独自に作戦の基本方針を変更する事例も頻発しました。目的のあいまいさは個々の戦闘だけでなく、戦争全体を覆っていました。日本軍は戦争をどのように終わらせるのかという目標が明確ではなかったのです。
戦局が厳しさを増しているなかでも主観と独善によって希望的な観測を持ち続け、あいまいな目的のもとで戦闘を継続した日本軍は、現実と合理的な論理によって漸次、破壊されました。日本軍には、個々の作戦を有機的に結合し、戦争全体をできるだけ有利なうちに終結させるグランドデザインが欠如していたのです。
p151
組織的知識創造理論
知識の創造は、個人から出発しますが、組織のフィルターを通すとさらに強力な知識が生まれます。私が提唱するのは「組織的知識創造理論」です。
議論の出発点は哲学者、マイケル・ポランニー(1891~1976年)が提唱した暗黙知の概念です。私の知識創造理論の中核となる概念といえます。同書の説明を引用しながら紹介しましょう。 「われわれは語れること以上に多くのことを知ることができる」とポランニーは説明しました。例えば、われわれはある人の顔を他の人々の顔と区別できますが、どうして区別できるのかを語るのは難しいのです。また、われわれは人の顔を見て、その人の様々な気分を察知できます。しかし、何をしるしに認知するのかはあいまいにしか語れません。つまり、顔についていうと、鼻、目、口、耳などの部分の特徴を明確には語れませんが、部分を統合して顔全体の特徴を知ることはできます。
ポランニーは、人間が新たな知識を獲得できるのは、経験を能動的に形成し統合するという個人の主体的な関与によってであると主張します。人間の知識はその対象によって受動的に規定されるという客観主義に反対したのです。知識とは、主体と対象を明確に分離し、主体が外在的に対象を分析することから生まれるのではなく、個人が現実と四つに組む自己投入、すなわちコミットメントから生み出されます。
暗黙的知識とは、語ることのできる分節化された明示的知識を支える、語れない部分に関する知識です。この知は分節化されず、感情的色彩を持つ個人的な知です。しかし、この個人的な知こそ、自らが経験を能動的に統合していく場合には、明示知を生み、意味を与え、 使用を制御します。
暗黙知はどのような仕方で知識を生み出すのでしょうか。ポランニーは「近接項」から 「遠隔項」への転移に注目します。遠隔項は焦点として意識され、近接項はそれに従属して意識されています。近接項についての知識が暗黙知です。顔の諸部分から顔全体へと注目する場合、顔全体が認識の焦点であり、認識の対象を把握するための手がかり、または道具としての顔の諸部分は語ることができない知識にとどまります。にもかかわらず、暗黙的に働く従属的な意識こそ、細目から意味のある全体への認識の条件となります。直観のひらめきは、新たなパターン認識への方向づけに役立つ従属的な意識からほとばしり出るのです。
「知る」とは、細目や手がかり(道具・身体)に関与し、暗黙的に統合して全体のパターンや意味を認識することです。ポランニーの暗黙知の概念によれば、個人の関与に基礎を置く知識は主観的で非現実なものであるという考え方に反し、人間は自らの知識の形成に積極的に参加し、その知識を現実の証とすると主張します。科学は客観性の諸原理に基づいて知識を生み出すというよりも、われわれの全人的な関与と暗黙的な方法によって、知識を生み出そうとする個人の意図した努力の結果だというのです。 実際には、直観(総合)と理性(分析)は相互作用をしながら人間の知識を創造していき直観的なプロセスは記述し尽せない暗黙知であり、全身を通じての認識の発見、創造です。個人のなかで、それぞれが創造者と分析家ないし批評家の役割を果たしています。
客観的な知識を形式知と呼び、主観的な知識を暗黙知と呼ぶなら、2つの知識は相転移を通じて時間とともに拡張していくとみています。 暗黙知には「手法的技能」と「認知的技能」があります。前者はいわゆる熟練であり、後者は人間の思考の枠組みといえます。認知心理学でいう個人の心の枠組みであるパラダイム、スクリプト、視点、メンタル・モデルなども認知的技能に含まれます。 個人の内部にあり、言葉で表現するのが難しい暗黙知を、組織にとって有益な情報として形式知に変換するためには、何らかの形で言語に翻訳されなければなりません。
p185
戦略現象の5つのレベル
6つの事例研究の後、第8章では、同書で活用する戦略論の枠組みを示しています。国家ないし、国家に準じた主体間で闘争が起きる場合、戦略現象は技術、戦術、作戦戦略、軍事戦略、大戦略のレベルで展開します。
技術のレベル
戦闘の帰趨は兵器システムの性能によって大きく左右される。兵器・装備品の性能では、 攻撃力と防御力のトレードオフが発生する。技術の卓越を求める技術者と、軍事での必要性を志向する軍人とのせめぎ合いがある。兵器の質の向上は、ときに戦術レベル以上の戦略を左右する。
戦術のレベル
戦場での軍事力の衝突によって構成される。人間が関わる事象であり、集団としての士気、技能が重要。戦闘の帰趨を左右するのは、現場指揮官のリーダーシップである。場としての現地の特性をすばやく理解し、刻々と変化する戦闘状況を読みながら、構成メンバーから最大限の努力を引き出す役割がある。予測しづらい状況に身をさらしながら、攻勢―守勢の非対称的なニーズを読み、ダイナミックな変化に対応する。
作戦戦略のレベル
戦闘に関する計画と意思決定の論理が全面的に展開する。作戦計画の全体を構想し、遂行するという独自の経営の課題に直面する。司令部の指揮・運用能力の競合と相互作用が問題となる。自己と相手の戦力の見積もり、相手の行為を含めて複雑多岐にわたる変数を考慮しなければならない。軍事力の衝突、正面からの攻撃を志向する「直接的アプローチ」と、何らかの手段で相手の軍事力の機能発揮を阻止しようとする「間接的アプローチ」の選択に帰着する。
軍事戦略のレベル
諸作戦を軍事的な合理性に基づいて運営し、国家の意志に結びつける。ルトワックは戦域レベルと呼んでいる。諸作戦の優先順位を定め、各戦域、各軍種の間に資源を配分する。多くの場合、最終的な決定は、大戦略レベルでの政治判断にゆだねられる。
大戦略のレベル
戦争あるいは国家安全保障のために、軍事力、外交・同盟関係、経済力、その他の国家資源を動員する。戦略に最終的な意味を付与する場である。軍事的な合理性を国家目標や国益にすり合わせる。大戦略レベルの課題を解決しうるのは優れた政治的リーダーだけである。 明快な国家目標を掲げ、誰にでも理解できる言葉と論理で国民に国益の中身を説明できる。 これに続き、戦略論の枠組みを活用して6つの事例を分析しています。本書では個々の事例分析は割愛しますが、随所でリーダーシップの重要性を指摘しています。
戦略の10の命題
終章では、「戦略の本質とは何か」と題し、10の命題を導き出しました。
命題1 戦略は「弁証法」である
戦略は絶えず、正(テーゼ)、反(アンチテーゼ)、合(ジンテーゼ)のプロセスで生成発展している。脚裏のダイナミックな相互作用を把握し、大戦略、軍事戦略、作戦戦略、戦術、技術の重層関係の矛盾を綜合するのが戦略である。
命題2 戦略は真の「目的」の明確化である
完全なる軍事的勝利が、必ずしも政治目的の達成にはつながらない。軍事的な成果を戦争目的の達成に、結びつけることが重要である。
命題3 戦略は時間・空間・パワーの「場」の創造である
時間、空間、パワーの関係性をコンテクストという。戦略とは、コンテクストをダイナミックに変換ないし創造しつつ、敵との関係を逆転させるプロセスである。
命題4 戦略は「人」である
戦略を洞察するのも、実行するのも人間である。「分析的戦略論」は傍観者的であり、人間の顔が見えない。
命題5 戦略は「信頼」である
信頼は戦略の創造と実行で重要な役割を果たす。大戦略の創造と実行におけるリーダー間の信頼は特に重要だ。
命題6 戦略は「言葉」(レトリック)である
言語能力は政治の基本であり、戦略も、時間軸を含んだ「起承転結」のレトリックで表現されることが重要。
命題7 戦略は「本質洞察」である
戦略思考には、その背後にある真の意味やメカニズムを読む洞察力が要請される。目に見える戦闘の背後に働いている論理、具体的な戦果を背後からコントロールし、左右している構造やメカニズム、逆説的現象の背後にある実在とは何か。直接、観察できる事象や事態を通して、こうした実在の形成、再形成、衰退を明らかにすることこそ、戦略の論理を明らかにすることだ。直観力はコンテクストにおける経験を通じて質量ともに磨かれていく。同時に、多くの書を読むことで、事象の本質と発展法則を洞察する素材を得られる。
命題8 戦略は「社会的に」創造される
戦略は人と人との相互作用のなかで生成され、正当化される。対話を通じた複眼的な思考のほうが、何が正しい戦略なのかという、真実に接近する能力を高める。
命題9 戦略は「義」(ジャスティス)である
戦略という知は真・善・美を希求する。善の典型は正義である
フロネシスの出所は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』である。アリストテレスは知識をエピステーメ、テクネ、フロネシスに分類した。エピステーメは分析的な合理性を基礎とし、普遍的な一般性を志向する。時間や空間に左右されないコンテクストから独立した客観的な知識(形式知)だ。テクネはテクニック、テクノロジー、アートに対応する。実用的な知識やスキルを応用し、何かを生み出したり、創り出したりする技能(暗黙知)である。 フロネシスは賢慮、配慮、実践的知恵、倫理などと邦訳されますが、同書では「賢慮」という訳語を使っています。フロネシスは、価値についての思慮分別とコンテクストに依存する判断や行為を含んでいます。常識の知、経験や直観の知を志向する実践的な知恵(高質の暗黙知)です。アリストテレスは、3つの知の効用はフロネシスの概念に綜合されると考えていました。 フロネシスは、日常の言語や非言語のコミュニケーションで他者の気持ちの理解、共感, 感情の機微の察知、自他介入のタイミングと限界点の配慮などを通じて養われる理解と創造の自由演技であり、知的パフォーマンスです。コンテクストの意味を読み、壮大な理論につなげる自由な思考の冒険です。賢慮型リーダーは個々のコンテクストを直視し、どの側面が検討に値するのか、どの側面は無視してよいのかを察知します。
フロネシスはアリストテレスによる概念ですが、「戦略の本質」プロジェクトの研究対象のなかで、フロネシスを体現しているとみられたのは、英国のウィンストン・チャーチル (1874~1965年)でした。 p214
リーダーシップ・プロセスの4つのモード
指導者が、国家、さらには世界、そして人類にとって何が善なのかという共通善を自らの信念に基づいて志向する。共通善を言語にしたものが、国家目標としてのビジョンになる。
大志は究極的には「国の形」であり、あるべき国家像となるが、その発端は現実の日常生活のなかで世のため人のためになろうとする思い、怒りや人間愛から生まれる主体的で暗黙知的な信念である。
目指すべき共通善に照らして目の前の現実を深く洞察し、状況を判断し、それに基づいて他者と共感する。他者との共感、共振、共鳴に基づいた談話こそが、知を社会的にする政治プロセスである。国家のリーダーは現実を直視し、対象にコミットして現実を受け止め、他者と自らの信念のギャップを対話を通じて止揚する。そして初めて大衆を動機づける合意形成につながる。
知を社会的にするには、人々が集い、相互作用する「場」が必要である。場は物理的な空間だけでなく、仮想的(バーチャル)な空間も含む。場をつくり、動かしていくのはリーダーの役割である。リーダーには、過去の出来事や現実の事象、その変化の背景にある文脈を察知し、その場に適応する新たな関係性を補完したり、転換したり、創発したりする文脈力が必要である。
リーダーは現実を直視し、自らの信念を国家ビジョン、政策コンセプト、実践のプロセスへと体系化し、それを「物語り」として人々に示す。それが戦略である。
「物語り」とは、物語(ストーリー)ではなく、ナラティブである。物語は初めと終わりがある完結した構造を示す「名詞的な」概念であるのに対し、物語りは、「動詞的な」概念である。単一の物語に収束せずに多様に発展していく。
国家のリーダーは、現在の多様に絡み合う関係性を把握し、過去からの蓄積である国家資産にどのような付加価値を加えて発展させるか、経済、政治、社会システムのバランスを取りながら未来に向けて発展させるかを、政策の物語りとして生成し、レトリックを駆使して国内外に浸透させる。その際に重要なのは、政策の先見性と一貫性である。
戦略の物語りを機動的に実践する。国家のリーダーは、パワー・マネジメントを駆使して変革を起動し、相互作用の場をつくる。指導者の個人知を集合知に変換し、国民の潜在能力を解き放つ。
リーダーは共通善と戦略を語る
p249
コロナ禍のもとで、人間同士がペアを組み、共感する場をつくるのは難しいのではないか、と疑問を持つ読者もいるかもしれません。私は、デジタルの映像を介した場合、身体性を共有したときと同様の共感を生むことに限界があると考えています。
見る対象が映像であっても、鏡のように相手の行動を自分に映す神経細胞であるミラーニューロンは反応します。ミラーニューロンが反応すると、人間は、他者の動作、感情、知覚について、自分が同じ状態を経験するのに使うのと同じ領域を使って理解します。オンラインでは五感すべてを駆使することができず、相手との相互作用が限られるため、対面での 2人称で共感し合う関係性を代替するのは難しいのです。
産業界は今、オンラインコミュニケーションに加え、AI(人工知能)やデジタルトランスフォーメーション(DX)の導入を急いでいます。
AIは人間の能力を拡張する存在であり、これからはAIと共創する時代だと考えています。しかし、AIは生命体ではなく機械であり、AIの記憶はリアルな感覚を生じさせる物語をつくり出せません。AIは人間を補助するツールでしかありません。
DXにしても、デジタルかアナログかという選択をする必要はありません。「あれかこれか」の二者択一を迫る「二項対立」ではなく、「あれもこれも」という「二項動態」の発想で、相互に補完すればよいのです。ただし、起点となるのは身体性を伴うアナログな直接経験であることを忘れてはいけません。
shimizukawa.icon オンラインの限界、まさに毎日感じる。すぐ隣にいれば伝わるはずのことがなかなか伝わらないもどかしさ。伝わるようにとむやみに文字数を増やしてもダメだし、ビデオ会議では伝わらない表情やニュアンスがある。