暗黙知
「われわれは語れること以上に多くのことを知ることができる」とポランニーは説明しました。例えば、われわれはある人の顔を他の人々の顔と区別できますが、どうして区別できるのかを語るのは難しいのです。また、われわれは人の顔を見て、その人の様々な気分を察知できます。しかし、何をしるしに認知するのかはあいまいにしか語れません。つまり、顔についていうと、鼻、目、口、耳などの部分の特徴を明確には語れませんが、部分を統合して顔全体の特徴を知ることはできます。
ポランニーは、人間が新たな知識を獲得できるのは、経験を能動的に形成し統合するという個人の主体的な関与によってであると主張します。人間の知識はその対象によって受動的に規定されるという客観主義に反対したのです。知識とは、主体と対象を明確に分離し、主体が外在的に対象を分析することから生まれるのではなく、個人が現実と四つに組む自己投入、すなわちコミットメントから生み出されます。
暗黙的知識とは、語ることのできる分節化された明示的知識を支える、語れない部分に関する知識です。この知は分節化されず、感情的色彩を持つ個人的な知です。しかし、この個人的な知こそ、自らが経験を能動的に統合していく場合には、明示知を生み、意味を与え、 使用を制御します。
暗黙知はどのような仕方で知識を生み出すのでしょうか。ポランニーは「近接項」から 「遠隔項」への転移に注目します。遠隔項は焦点として意識され、近接項はそれに従属して意識されています。近接項についての知識が暗黙知です。顔の諸部分から顔全体へと注目する場合、顔全体が認識の焦点であり、認識の対象を把握するための手がかり、または道具としての顔の諸部分は語ることができない知識にとどまります。にもかかわらず、暗黙的に働く従属的な意識こそ、細目から意味のある全体への認識の条件となります。直観のひらめきは、新たなパターン認識への方向づけに役立つ従属的な意識からほとばしり出るのです。
「知る」とは、細目や手がかり(道具・身体)に関与し、暗黙的に統合して全体のパターンや意味を認識することです。ポランニーの暗黙知の概念によれば、個人の関与に基礎を置く知識は主観的で非現実なものであるという考え方に反し、人間は自らの知識の形成に積極的に参加し、その知識を現実の証とすると主張します。科学は客観性の諸原理に基づいて知識を生み出すというよりも、われわれの全人的な関与と暗黙的な方法によって、知識を生み出そうとする個人の意図した努力の結果だというのです。 実際には、直観(総合)と理性(分析)は相互作用をしながら人間の知識を創造していき直観的なプロセスは記述し尽せない暗黙知であり、全身を通じての認識の発見、創造です。個人のなかで、それぞれが創造者と分析家ないし批評家の役割を果たしています。
暗黙知と形式知
客観的な知識を形式知と呼び、主観的な知識を暗黙知と呼ぶなら、2つの知識は相転移を通じて時間とともに拡張していくとみています。 暗黙知には「手法的技能」と「認知的技能」があります。前者はいわゆる熟練であり、後者は人間の思考の枠組みといえます。認知心理学でいう個人の心の枠組みであるパラダイム、スクリプト、視点、メンタル・モデルなども認知的技能に含まれます。
個人の内部にあり、言葉で表現するのが難しい暗黙知を、組織にとって有益な情報として形式知に変換するためには、何らかの形で言語に翻訳されなければなりません。