文化と権威
かつてのラフォーレパクリ問題
このときの渦中の人となった酒井いぶきさんはインスタで元気にやっているようである
以下、ウルトラ偏見と雑な一般化にまみれた個人の意見
「モデル兼アーティスト」という人は世の中にたくさんいる
美術以外でも音楽とかたくさんいる
そういう人はたいがい、文化的ハイソなコミュニティに所属しており、その中で制作や仕事をおこなっている
ファッション、音楽など既存メディアの力が依然強いもの、アクセス経路が限られるものは特にその傾向がある(サンプル多数)
たいがいいいとこのお生まれであり、ナチュラルボーンに文化的ハイソ振る舞いをできる(鬼ルサンチマン表現)
思い出
VJつきバンドとして早期に名を馳せたyahyel、ナイキの何かのイベントでのライブを見に行ったときに最前列で「メンバーの◯◯くん塾高の友達〜」と話していて東京を感じた回
産業としての芸能
芸能界で活躍できるような人を見つけてきて育てるのは普通にコストがかかる
そう考えると、そういう仕事のことをよく知っていて、芸能事務所スタッフともプライベートの関係ができやすい、東京のいいとこの私立高校とかで(たいがいご父兄に芸能関係者が多数)芸能人の子どもをデビューさせるほうが容易い
結果として文化格差がガッチリ固定されがち
sanokazuya0306.iconは広告代理店時代によく見た
芸術でもだいたい同じようなことが言える
実際のスキルとか、美術界のコンテクストとか関係なく、「普通に友達にお願いしたほうが仕事しやすい」という事実
それが世に出る機会が多くなればなるほど、それがスタンダードになっていく
そして実際に賢いしクオリティ高いし、なによりいい人が多い
あなたも思い浮かぶ人が1人くらいはいるでしょう
そこにヘイト向けても仕方ないのはわかっている
果たして「作品の善し悪しより、人間関係の濃淡が重視される」ことは、悪いことなのか?
その中にいる人は気にしていない
でも外から見ている人はムカついている
sanokazuya0306.iconはムカつきがち
なくなったほうがいいのかはわからない
アートはコミュニケーションの側面が強く、そもそも「コミュニティに入る」ということがものすごく重要
バンドとかDJとかVJとかでも同じ
家でやってるVJがいくらすごくても、音楽の現場に顔出さなければ知られないし、現場に呼ばれることもない
エスタブリッシュが嫌いな感情
現代アートはエスタブリッシュにカウンターのポジションをとるのが普通
でも現代アートをガッツリやれるような人は大概エスタブリッシュな出自である
なにがエスタブリッシュで何がカウンターなのかは相対的であるが
とはいえカウンター出自な人が現代アートをやっても、上述のような環境もあり強いパワーはなかなか持てない
エスタブリッシュになりながらやっていくしかない?
言わなくていいこと
かぶっている部分が大きいので反応したい気持ちはわかる
が、こういうことやろうとしたらこうなるだろうとも思う
永松氏が書いている通り、海外からコンテクストを相対化できればもう少し見え方も変わるのではないか