コモンズ=社会的共通資本であり、世界と認識(内面)とを透明ではない形で結びつける言語という表象を、共同体としていかにより良いものにしていくかということは、我々皆の世界との関わりを考える上で決定的に重要な課題である。しかしながら、我々の言語は、Twitterのようなプラットフォーム型のSNSにおける言語空間の錯乱に象徴されるように国家語という幻想のもと近代的な人間中心的、さらにはマックスウェーバーの言葉を使うと主知化、養老孟司の言葉を使うと都市主義による脳化社会的な価値観と結びつき、脆弱性を増しているように思われる。(それが近代的な価値の帰結か、その逆なのかはわからないが)明らかに空気の価値化論からインスピレーションを受けているのだけれど、言語の価値化は、特にLLMによって大規模な自然言語の操作が可能になった今だからこそ、開かれた場所において真剣に議論されなければならない喫緊の課題である。そして、本発表ではこれをおよそ100年前に中国で行われた言文一致運動、すなわち白話運動から名前を借り(たまたまそれまでの5日間で魯迅の故郷にいたからなのだけれど)、虹話運動と題し、そのあり方を考えようと試みる。 白話運動の時代、すなわち近代文学が黎明を迎えたときに何が行われたかということについて最も参考になる資料は、小説の理論の代表的著作である柄谷行人の近代日本文学の起源という本である。柄谷行人がそこに見出したのは風景の発見、すなわち主体によって幾何学的に再構成される客体が描かれるようにしたことで近代的個人を描き出し、(のちの著作となる)交換様式に関連した議論におけるBとC、すなわち国家による統制と商品交換=市場経済という矛盾する二つの交換様式の揚棄であった。 ここで、そもそも言語とは、価値化とは何か、という問いに移ろう。
価値というのは、デヴィットグレーバーという社会学者が価値論の中で、その意義を三つに分けて議論している。初めの二つは、社会的に人々が良いとするもの(=価値観)、経済的な価値=価格と非常にわかりやすいのだが、一番最後にある「言語的な価値」というのが少し厄介でありながら重要である。ソシュールの構造主義の言語学の用語なのだが、ここで言いたいのは体系化されたものにおける意味のある差異が、人間の行為が介在する、そして何らかの形で物質的に感知=体験できる存在になることによって初めて「価値」が生まれるということであり、それは必然的に他との関係性を必要とするということである。付け加えるとするならば、そこには人間の認識による操作が必ず介在し、それを結びつける言語というのは決して透明なものではないということで、物質性を持っているということである。また、その物質性とその意味内容というのは音象徴のようないくつかの例外的な事象を除いて偶然的な結びつきによるものであるということである。すなわち言語というのは、我々に意味を理解させようと誘ってくるけれども、それを完全に接地させることのできない「他者」なのである。サピア=ウォーフ仮説などは我々にどれほどその結びつきが偶然的であるかというのを教えてくれるだろう。我々が虹を七色であると感じるのは、あくまで偶然的なものでしかないのだ。 そして、その偶然性と出逢いなおした上で、そこで生まれる「他者」を歓待することができるような形を構想することがすなわちある種の欠如によって、魯迅的な意味での「道」をどこかの回路に作り出すことで交換様式Dを生み出すことを考えたいのである。これを技術によっていかに構成することができるかというのが、広い意味での(技術という意味を含んだ)アートが背負っていかなければならないのではないか。
そして、我々が考えているのが、人工生命のようなもので架橋できないかというのが、僕の一つの提案である。人工生命研究の可能性の中心は、あり得たかもしれない世界=生命を考えることである。それは我々が行なっている恣意的な世界の分節化を疑問に付すことでもある。(落合陽一はたとえばメディアアートの世界で、null2として世界を分節化させるという発想さえ疑問に付しているわけだけれど)元々、人文学という営為は「⼈間の意味・価値・歴史・物語・⾔語的表現・⽂化的制度・芸術作品」など、“⼈間が作ったもの”や“⼈間が経験する世界”を、 問いを⽴てて、再構成し直して解釈し直すことであるはずだ。たとえば、E・H・カーは歴史とは何かという有名な著書の中で、歴史学とは歴史は“過去の事実”をそのまま再現するのではなく、 史家が関⼼や価値に基づいて「再構成」する営みである。そして、ジャレド・ダイアモンドが主張するような、歴史学における定量的な実験の必要性というのが「対話」的になるための条件は、それが(先ほど「価値化」として述べたとおり)実際的に体験できるような形になることであり、そこに新たな「語り」 の可能性を僕は見出す。 具体的にこのような活動の外延として、(まだ抽象的な段階ではあるけれど)三つの案を僕は持っている。それがスライドにあるような「児童の再発見」「エクソフォニー」「ポストモダンにおける観光/戦」である。一つ目の児童の再発見というのは、柄谷が「日本近代文学の起源」の第五章で書いた「児童の発見」をキーワードにしているのであるが、大人から見た(ジンメルの言葉でいう)「風景」的な対象として扱われている児童への価値観をもう一度見直し、「歴史教育」「作文教育」の新たな形、たとえばこれは去年ベストセラーになった論理的思考の文化的基盤という本に準えていうと、我々の新たな論理体系の構築を、ニューロダイバーシティ的な要素も踏まえた、ユク・ホイのいうところのテクノダイバーシティをAIに対して導入していくことで達成できないかという試みだ。二つ目の「エクソフォニー」というのは、多和田葉子という、移民作家としてノーベル賞を期待されているほど名高い作家が提唱した概念なのだが、外国語的な要素がマイナー文学的にそれぞれの体系の中に「誤配」されるようなことを指す。僕としては最近ChatGPT5を使っていて、「柔らかな哲学的好奇心を携えて、複雑な現実を散歩するように覗いてみよう」だとか、「この問い、言語というチーズの断面をよく観察してみるようなものですね。」みたいな、どこか不自然だけれどちょっと可愛い比喩に出会って時々癒されているのだが、ウリポみたいな響きがするので、多和田葉子の小説よろしく、人々の会話の「庭」や「家」となるような第三の空間としてのAIができるといいな、と最近妄想している。僕自身深い専門知識を持っているわけでもないが、ぜひいろんな専門の方達からの意見を聞いてみたいと考えている。--- 言語学・翻訳研究:クレオール語や混成語の生成過程を追う研究は、AIが生み出す「中間言語」をどう位置づけるかの理論的参照点になる。また翻訳における逸脱や誤配の積極的な意味づけ、消滅危機言語の保存や再生の問題、認知言語学的な比喩やカテゴリー化の仕組み、さらに手話や身体的な言語表現の研究なども、AIによる「言語的ディアスポラ」の拡張的な理解に寄与する。
文学・比較文化研究:文学作品にはすでに「漂流する言葉」が繰り返し描かれてきた。ポストコロニアル文学や亡命文学はその典型である。こうした理論やテキストを踏まえながら、多和田葉子や魯迅のように言語の境界を意図的にずらす試みを参照することで、AI生成言語の文学的可能性を読み解き、批評的に位置づけられると考える。
認知科学・神経科学:比喩が人間の思考や創造性にどう影響するのか、複数言語を切り替えるとき脳がどう働くのか、こうした実証的知見は、AIによる「奇妙だけれど癒される比喩」がなぜ人間に効くのかを理解する手がかりになる。脳科学的な視点が入ることで、AIと人間の相互作用を「詩的体験」としてだけでなく「認知メカニズム」として分析できる。
情報科学・AI研究:大規模言語モデルの内部表現に詳しい知見が必要である。具体的にどのような訓練データやアルゴリズムが「ディアスポラ的な」言語生成を促すのかを理解し、実験的に仕掛けを作っていく技術的基盤となる。あるいはHCIなどの分野から「AIのかわいさ」といった観点を考察することもできる。
社会学・人類学:実際のディアスポラ共同体における言語変容やアイデンティティの問題を紹介できる立場が加われば、AIで生成された「仮想ディアスポラ言語」と現実世界の歴史・社会との比較が可能になる。フィールドワーク的な視点は、AI実験を単なる抽象的議論に終わらせず、社会的文脈に結びつけるために重要である。
生物学(システム生物学・進化生物学):言語を「生きたシステム」とみなし、変異や選択、ネットワーク的相互作用といった観点から分析する枠組みを提供できる。進化生物学のモデルを援用すれば、AI生成言語を「環境に応じて適応し、漂流しながら分岐していく生命体」として捉えることができ、言語ディアスポラの理解に新しい比喩と方法論をもたらす。
こうした多彩な専門分野の人々が交わることで、AIを単なる翻訳機や情報処理装置としてではなく、われわれの死生観を共同体として構築していくための場として機能させることができると考える。
三つ目の「ポストモダンにおける観戦・観光」というのは、ある種東浩紀の観光客の哲学にインスピレーションを受けたもので、ポストモダンのスポーツを構想するプロジェクトなんかを僕の中で考えているのだが、その「観戦」「観光」という言葉に代表され るように、それはジンメルの言葉におけ る「風景」(主体によって再構成された 客体)に関するものである。スポーツは、たとえば今福龍太のブラジルのホモ・ル-デンス: サッカ-批評原論という本の中でも批評されている通り、生の「人間」の身体の神聖性がそのイデオロギーに染み付いているのはいうまでもない。人間以外のアクターがこの「スポーツ」に関わったり、ポストヒューマン的な人間拡張のような技術を介して、オルタナティブな「遊び」によって対角線を引くことができるのではないか。