生きている世界が違う
「彼女は頭が悪いから」は、高学歴の人間が低学歴の人間に向ける眼差しを、かなり正確に体現している。
橘玲さんが、「言ってはいけない」の中で、基礎的な数学的、論理的思考の能力を欠如している大人があまりにも多いことが、(その上、エコーチャンバーの帰結として、「高学歴」「低学歴」の両方がそのことに無自覚であることによって)社会の分断の原因になっていると指摘した。(この辺りは誰が国語力を殺したのかにも)
「あまりにも無自覚である」ことに、僕は深く反省させられた。そして、それは僕の原体験を振り返ってみるきっかけになった。僕は地元の公立小学校に通っていた。入学した当初から、「自分が周りの人たちよりも頭が良い」という直感を持っていて、さらにいうと、自分よりも勉強のできない大多数の人間に対して、優越感を抱いていた。僕は幼稚園の頃には九九ぐらいは完璧にマスターしていたし、国語的な能力もある程度鍛えられて育った。だから、小学校に入ってはじめに習う足し算や漢字の書き取りに躓く理由が全然理解できなかった。高学年に上がるとそれはより顕著になって現れた。何しろ、僕は最難関校の中学受験をしていて、僕の他に中学受験をするような人はいなかったのだから、そこに大きなギャップがあるのは当然だった。僕が何回教えても分数の足し算や掛け算を理解してくれない人もいて、そういう人にはいささか諦めのような、蔑むような、そんな感情が芽生えていった。それがある種の「構造」(構造主義のいうような「構造」のことだ)の中に存在するということには、あまり意識することがなかった。遺伝的な環境、社会的な階級などなど。小学六年生の時に、小学校の同級生の一人が僕に言った、「君と僕は生まれた環境が違うんだ。だから比べても仕方がない」と。それは、親から教えてもらったことをそのまま鸚鵡返しにしたような口調だった。でもまだそれはマシだ。だって、一応のところ当時は「
そこにある種の「知的な傲慢さ」のようなものが伺える。それは確かに、ブレグジットやトランプ現象(ポピュリズムにつながった要因の一つであるし、あるいは日本における「お粗末な政治」とも
思い返してみれば、僕の高校三年生の特に後半の時期はそういうことに思いを馳せたくなる時期だったのかもしれない。確かに、それは僕の大学生活のスタートに影響を及ぼしていた。わせだ男子も、「一般的な感覚を取り戻す」プロジェクトの一環として語れるのではないか。千葉雅也さんの「勉強の哲学」で語られた「キモさからの解放のプロセス」とも言い換え可能かもしれない。ただ、このプロセスはあまり成功していないように見える。一方では、本をたくさん読むことによって「エリート的な知性」を身につけ、一方では「一般人的な感覚について解像度を上げる」、このベクトルの乖離に対して僕が少々混乱をきたした。それは、わせだ男子の僕の人生における意味とそこからの脱出について、
「内部からシステムを変えるのはほとんど不可能なことだ。」というのは、真な命題なのではないか。もしくはそこに真実が含まれているということは否定できない気がする。それでも「内部に身を置いてその実情を知る」というのは非常に重要なことだ。問題の根底にあるのは、「状況をなんとかして変えたい」というそのマインドセットにこそ無理が存在しているのではないか。