地政学的な観点から見た僕のアイデンティティ
僕は最近「自分博物館」みたいな、自分のアイデンティティを明らかにしようとするような創造物を残しておこうという考えを持っている。この考え方は、開先生が自身のedutechと認知科学の相関領域の講義で話していた話からもインスピレーションを受けてたり、南京の孫文の墓、中山陵で見たあの空間の配置にも端を欲していたり、ヴァレリー的な「人間の思考の処理」について書いた詩作集にも影響を受けていたりする。あとは近年の臨床心理学研究で明らかになってきた2024年の夏休みの収穫はずばり「セルフコンセプトクラリティの向上」の重要性も関連している。そして、この頃少し考えている地政学的な観点はその構築に何らかのアナロジー的な視座を与えてくれているような気がしているので、少しこのことに関してメモしておこう。この辺りのアナロジー的な思考は、ジャレド・ダイアモンド先生のupheavalにも通ずるところがある。やれやれ、僕という存在はいろんなところでいろんな潜在的な影響を受けて成り立っているのだけれど、そんなことを全て書こうとすると、僕の無意識の奥底まで潜って、あるところに達すると火傷してしまう。瘡蓋をちょうどいいところまで剥がしたいけれども、憶測を見誤ると血が出てきてしまうかのように。 僕という存在を地政学的に考えようとする時、当然ながら「個人」というアクターとして考えることになる。ここからは幾らか心理学的な領域に入ることにもなりそうだが、その前に僕を取り巻いている主体についても考えておかなければならないだろう。一つに国家というものが介在している。僕は日本という国に生まれついてそこで18年ほど人生を歩んできた。海外渡航歴に関しては、中国の南京が1回、蘇州も一回、アメリカには二週間の修学旅行とグアムへの旅行、韓国には大学に入ってから2回行っている。平均的な人間に比べると僕は海外経験が多いと言ったところであろうか。英語や中国語もそこそこ堪能で、日常会話レベルなら特に問題なく行うことができる。本によっても国際的なつながりを得ていて、年間で数千人の国外の著者と書物を通した付き合いがある。これは些細なことに思われるかもしれないが、市場経済への距離とか、空間的な移動性の大きさとかいう要素は、個人の選好に大きな影響を与えるというのもまた確かなのだ。この辺りのことはWEIRDという去年邦訳された本の中に詳しく書いてある。「ルーズな文化とタイトな文化」も視野に置いておく価値がありそうだ。 そして、学校のネットワークというのは見逃されがちでありながら、かなり重要な位置を占めている。まずは塾である。(塾は定義としては)学校ではないのだけれど、地政学的なアクターとしては、英才を育てる浜学園というのは、正確な定義に則ることによって隠してしまうには大きすぎる存在だ。何せ、今でも浜学園から「東大生へのアンケート」みたいな形で協力を求められることだってあるのだ。そしてそこは、洗脳教育と言って差し支えないような形の教育が行われている。これに関しては別のスレッドを立てる必要があるだろう。僕がそこで学んだ一番重要なものは、算数の問題をどうやって解決するのかではなく、(いや、これはとてつもなく大切なものだ。非常に、非常に、かけがえのないものだ。でもここの文脈ではそうではないと言わなければならないのだ)組織や権力、単純で考えなしの標語の陳腐さだった。 どんな教育を受けていて、どんな思想を持っているのかというのもまた重要だ。家族や地域社会からの影響も重要である。僕は幼少期から、「真面目」なキャラを演じてきた。そして、そこそこに優秀だった。そして変なこだわりが多かった。親からは特に思想的な影響を受けなかった。彼らは「諦念」の上に成り立つささやかな幸せを享受していた。そして僕は彼らの気前よさにつけ込んでと言っても間違いではないほど、彼らの生み出す財の大きな割合を消費した。彼らのお金を使う対象というのが少ないというのがその一因であろう。マネースクリプト的な観点から見るとかなり健全な家庭で育ったのではないだろうか。まあでも「大きなもの」には全然興味がなかった。どちらかというと彼らは、まあ僕もその性向を一部受け継いでいると言っても良いのだろうが、内向的な性格で、それ相応の態度をとっている。経済とか政治とかには「やれやれ」対応だ。
しかしながら僕の政治経済に対する態度は彼らと少し距離が存在する。まあ異なる世代に生きているということはその程度の差異が存在するのは当然のことだと言ってもいいのかもしれない。やれやれ、そういう違いは仕方なしに存在するのだ。そしてそれは別に否定的な評価を下さなければならない対象でもない。僕はインターネットが世界のあちこちのノードを繋いでいる奇怪な世界に生まれたのだ。国際的な交流の重要性もこれまでのどの時代よりの叫ばれているのだ。これは性格どうこうの問題ではなくてある程度考えなければならない問題なのだ。環境問題やポピュリズムなどの「人間の直接知覚が及ばない領域のせいで起こる(要するにわれわれの限定合理性が生み出した)問題群」に対応する責任を感じる世代なのだ。
あとは、
現代地政学というのは、究極的には「人間と空間の相互作用について」考える学問だ。そして、現代の地政学における「メタ地理」の概念は、空間というものを物理的なものではなく、「概念」と結びつける。概念間の距離というので思い出すのは、最近の大規模言語モデルが実装する意味ベクトル的な表示だ。もしかすると、この二つが統合される日、機械の中で人間が持つ概念が数値化される日が来るのではないかという人もいるかもしれない。ブレインテックなんてかなりの部分までその手助けをする可能性はある。しかし、マルクスガブリエルが三部作の長々とした議論で伝えようとしたように、「主体」はここにしか存在しないのだ。そして、この自分自身を理解するためには地政学的な定性的視点が必要なのではないか。僕は地政学という学問をそういうところと結びつけて捉えています。