博学者
知の巨人について書いた本。
5/3 日記に替えて
東京駅の本屋でビジネス書が否応なく目に入り、キャリアへの志向に感染させられる。いかに資本主義経済のイデオロギーから、能力主義から逃避しようとしたところで、だからと言って何か反抗できるわけではないのが現代社会というものだ。ジジェクは正しい。って、今日見た積読チャンネルでも言ってたなー。
そんな矢先、よく脳内のカオスにのそのそと侵入してくるのが、面接。
EAAの面接で急に英語と中国語を話させられて以来、僕は僕の素性についてズケズケと質問してくる面接官に雄弁に外国語で話し返している自分を想像しては、その直後だけ英語のスピーキングが上手くなるのだった。野球を現役でやっていた頃、メンタルトレーニングの本を時たま読んで、ちゃんと信仰した割に、あまり本番に強いタイプではなかったので、なんだ、効果がないじゃないかと、やれやれムードになっていたのだけれど、今になって意図せずにやっていた鍛錬の成果が出てくるとは、世の中捨てたもんじゃない。
石井先生が、最近読んだ本の中で面白かったものはなんですかと、なんとなく僕に対して冷めたような、、声で(いや、本人はノーマルモードなつもりをしているのだろうか)、、
聞いてくるのだけれど、僕は「博学者」を取り上げる。
学際的とはなんたるかとたまに考える。
就活のガクチカで、、少しだけ、、引用させていただいた浅田彰の教養観。
(直接的な原因は、デヴィッド・エプスタインのRangeというビシネス書を読んだことで、なのだけれど、外向けに ビジネス書ばかりを読んでいる人間だとは思われたくなくなったので、この本を選ぶことにしている)
中上健次が「現代小説の方法」の中で、あんなものは新しくもなんともないと喝破していて、なるほど確かに学際化を進めようとしながら進んでいく門の潮流は確かに、最低でも文献の残っている古代ギリシャや、ルネサンスのレオナルド・ダヴィンチまで、、、専門性と学際性の再起構造の一部として捉えることができるだろう。ユク・ホイが「再帰性と偶然性」の中で技術の西欧中心主義、前近代ー近代ーポストモダンと続く直線的な歴史観の脱構築の中で示したように。
この本の中で、ピーター・バークというオックスフォードの歴史学者は、「学際性」の歴史に迫る。
まとまりが取れているかーあっと驚くような発見があるかというと、、睡眠時間を削る人のエピソードが出てきたと思ったらそうでもない人たちもいて、、独学を推進する人がいれば人とのネットワークが重要だとの言説があったりするので、ああ結局自分の道を見つけるしかないのだろうかと思いつつ、この小説の登場人物に自分がなると想定するとなんだかやる気になってくるのは何故だろうか。
西洋中心主義から離れて
ルネサンスという時代
専門化の時代とはなんだったのだろうか
近代的な主体ー客体関係に基づいた方法序説によって、「分化」が進められ、それを線形的に総合によって解をもたらそうとすること。それが資本主義(アダム=スミス)であり、民主主義の投票(ルソー)だ。また、主体を人文学=文系が論じ、客体を自然科学=理系が論じるという二分法が形成されたのは、カントの批判三批判書の影響、特に前期二作によるものを大きく受けている。実際にその影響が色濃く出始めるのは19世紀あたり(ハーバート=スペンサー、ゲーテぐらい)なのだから、そこには1世紀ぐらいラグがある。
学際性が失敗する場面
「学際」の錦の御旗のもとに、世界中に大学、研究機関が建てられている。東大の駒場キャンパスだってその一部だ。しかしながら、我々は十分に学際的だろうか。
言い換えると、例えば我々総合情報学コースというのは、単に理学部と工学部の情報関係の学科の寄せ集めになってしまっていないだろうか。(そして、このような状況があるとするのならばそれに僕は争おうとしているのだけれど)
中途半端にプログラミングそれ自体を教えるよりも、「繋げる」ことにフォーカスした、松岡正剛の言葉を借りるとするならば「方法」に注目した、そんな学府を創造できている場所をあまり見たことがない。あるいはその方法を僕は哲学によって接続しようと目論んでいるのだけれど。
カフェでの対話
遊び
重要な教訓を一つ引き出すとするならば、博学者は常にどこかで間違いを犯し、それでもなお重要だということだ。
ジャレド・ダイアモンドの議論は統計によって反証されたり、、、ハーバーマス、フーコーなんかにも同じようなことが言えるかもしれないが、今やフーコーのない社会学ー歴史学も、ハーバーマスのない社会学もない。チョムスキーのないコンピュータサイエンスも言語学もない。落合陽一やユヴァル・ノア・ハラリ、オードリータンはその現代版を引き受けようとしているのだろう。
「刺激的な研究、、、」でも主張されたように、ギャップフィリング型の研究から離れた認識論的切断と表現しても良いであろう学問の地殻変動を起こすのはまさにそういうものに他ならない。
(ここまで考えたけれど学際的研究の経済学のようなものはありえないだろうか。計量経済史が存在するのならば、計量「科学史」があってもいい気がするのだけれど)
付け加えるとするならば、生成AIとの関わりをもう少し考えたいところだ。
本の内容
Polymath
ピーターバーク先生は、知識社会史の先生。このテーマについてたくさん本を書いている。新たな「情報記録のやり方」を模索している僕にとって結構重要人物。たしか、「無知学」の本の編集にも入っていた気がする。
内容に入ろう。
産業社会の中で冷遇されてきた博学者。比較優位の原則が働く中で、彼らは「文字の共和国」の中で何とか滋養を与えてもらえる。
あとは、フェミニズムを持ち込んだのもナイス。
先生は博学者っていうのを3つに分類する。
消極型。小説家に多い。ボルヘス、H.G.ウェルズ、ハクスリー。
密集型。新たな専門分野の確立を産む。ミシェル・フーコー、マックスウェーバー、ノイラート、ウィーナー、フォン・ノイマン。鱗型。
移行型。フロレンスキー(知らなかったけど)、ニーダム、ベイトソン、ハーバートサイモン、M・ポランニー、ミシェルドセルトー。僕の関心分野としては結構近いのかも