タイムキーパーのシンフォニー
「時間感覚」は近代小説が扱ってきたテーマの一つである。 - 意識の流れ
それは、読者に「時間的余裕の感覚」を与えることが、実験心理学も示唆している。 どういう文化環境下に置かれているかによって時間をどう近くするかは異なる、というのが文化人類学研究が示すところだし、それはしばしば文学的なテーマになってきた。この軸でいうと、バルガスリョサの「アフリカの日々」は、 SFはこの時間感覚の探求をさらに深化させた。
『三体』は、宇宙の終焉という壮大な時間スケールの中で、人類の存在そのものを問い直している。その壮大な時間軸は、人間の日常的な時間感覚を超越し、読者に新たな視座を提供する。 そして、今回ケンリュウは、時間感覚の生体的な機構に目を向けることによってそれを達成している。(ちなみに鈴木祐は「最高の時間術」っていうめっちゃ大衆ウケしそうなタイトルで、この小難しい概念をビジネス書の体裁でまとめ上げたのだから大したものだ。) タイムキーパーのシンフォニーは、生体的メカニズムが一般大衆にみえるようになることによるw時間概念の社会的創発のシミュレーションをしている。そこでは、地球外生命体という他者との出会いにより、主体の環世界の違いが浮き彫りになることによって、「人間 vs 動物」の二項対立の概念が脱構築されている。(アストロバイオロジー - 宇宙的な自然
ハイデガーは人間に対して環世界の概念を当てはめようとするユクスキュルの議論に抵抗した。(暇と退屈の倫理学より)これは、他の動物に対する人間の特権性を守るための哲学的政治であり、人間至上主義的であるというのは簡単だ。 人間は環世界の間を移行することに長けている。宇宙物理学を学べば天体を見た時に感ずるものはそれまでとは全く異なるものになるし、統計的処理の知識を持っているとAIに対する見方は大きく変わり、英語を学べば俄然海外のものに対する興味が湧く。このことが人間を他の動物と全く異質な存在にしているというのは誇張ではなかろう。
落合陽一が「デジタルネイチャー」において述べたのは、戦争により天皇信仰が崩れ、資本主義の物語が環境破壊や労働問題の観点から疑義が呈されている現代日本において、統計や数学的処理で擬似的な自然環境を再現し、前近代において日本で育まれた汎神論的信仰を復活させようとする思想的枠組みだ。 ケンリュウは、人工知能や工学的技術の発展とは別軸の「人間と宇宙との関わりの深化」をテーマにとって、人間の環世界の移行をシミュレーションしている。そこでは、時間の物理的、知覚的概念は自然なものである。
この物語には結末がなく、現状記録という形をとっている。妥当なところに落ち着いていると言っていいのではないだろうか。
ちなみに時間もそうだけれど、知識社会学の分野で、「論理」だって社会的に構築されている部分が存在するという論がある。 これをテーマにしたSF小説が出てきても面白いかもしれない。AIという「統計的経験主義の論理」のツールが社会によってどのように構築されるのかという命題は、今日最も大きな主題の一つに他ならないだろう。