北京研修
J4230009 理科I類二年 植田龍二
頤和園の庭園を歩いていたとき、不意に足元に言葉が現れた。水で書かれた漢字が、石畳のうえににじみながら光を反射していた。石井先生によると、中国の象形文字にエクリチュールの新たな可能性を見出そうとしていたジャックデリダはこの光景を見て感動したそうだ。好好爺の濡らす痕跡は、産声を上げてから数分と経たずに乾き、変化し、やがて老いて枯れる。
ホテルで同部屋だったロシア語TLPを修了した同志がしきりに中国語を勉強したがるので、毎朝6時半に起きて自己紹介のしかたから教えていたのだけれど、彼は途中で飽き始めて気づくと僕にロシア語を習う番になっている。僕も自己紹介からやろうとしたのだけれど、そもそも糸でできたイプシロンがそっぽを向いて反転した何かを音にできないので、平仮名を覚えた幼年期に戻って書写の授業を受け直さなければならない。
空いた時間に本の虚構に潜り込むと、そこでは漢字が左右に反転する。多和田葉子の「ボルドーの義兄」だ。近代文化が生み出した黙読に、情報の高速伝達手段たる活字に、したたかに反抗する。北京大学の考古学博物館で見た石板に掘られた漢字の赤ちゃんを連想させる。
どういう認知のフレーミングなのか、文字の物質性にばかり注意が向いてしまうのだけれど、このスモールワールドをティムインゴルドの「線の文化史」に補助線を引こう。線とは単に視覚的な境界でも記号でもなく、人間の身体の運動が残した「生成の痕跡」であると述べている。それは言葉になる前の、**生きた経験の軌跡**だ。文字とは、すでに意味を持つ記号ではなく、「意味になろうとしている運動の途中」にある何かだとすれば、私が北京で出会った文字たちは、まさにそうした「途中のものたち」だった。
頤和園の地面に浮かんだ水の線。
石板に刻まれた、漢字の赤ちゃん。
拙いキリル文字。
「意味が定まらないこと」によって開かれる。
文字を「読む」よりも、触れ、つまずき、共鳴する。
いつしか、記号に出会うたびに、自分の輪郭もまたずらされていく。
EAAの面接
「human being ではなく、human *co-becoming* とは何か?」
人間とは、定まった存在ではなく、他者や制度や言語との関係の中で、共にずれ、共に生成されていく存在だ。
ロシア語を教えられる自分、水文字に見入る自分、意味を取り違える自分、言葉を失う自分。
それらの「不確かさの総体」こそが、私という線を描いている。
他者と交差し、風景にゆらぎ、制度に撹乱されながら、それでも言葉になろうともがく。
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