暇と退屈の倫理学
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人というのは努力によって社会がよりよくより豊かになっていくことほど不幸になる
人間は世界を受け取るだけではなくそれを自分の型に当てはめて主体的にまとめ上げる
人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、あらかじめ受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。
社会が悪いぞ話として処理しそうなのでちゃんと考えたいrkasu.icon
この話でてきたrkasu.icon
十分に生きるために充実している人はそれで満足していればいいのに愚かな人間は部屋でゆっくりすることができずに社交の場に出かけてお金を使ったりして調整している
こういう人間はみじめ
ウサギ狩りの例
ウサギ狩りにいく人はウサギはいらない。その行為自体を楽しんでいる
これは別にいいとは思ったけどこれがおろかとかみじめとかなのはちょっとどうなんだろう。
欲深いとかそういうことなんだろうか
浪費・消費とはなにか
浪費は生活に豊かさをもたらす。どこかでストップすることができる
いつも腹八分目ぐらいだけど今日は沢山たべよう
消費とは満足はもたらされないし、限界もない、永遠と繰り返す
例として「この店が美味しい。有名人が訪れたこともある人気店」みたいな紹介をされるとみんな行きたくなる
これは食事が目的かもしれないがその店に付与された外篇や意味を受け取ってしまうことによる消費
利己愛と自己愛
自己愛は自分を守ろうとする気持ち
利己愛は他人と自分と比較して自己を他人よりも高い位置に置こうとする感情
時間が退屈にさせる
例えば電車を待つ事例
駅舎で待っているとき何かしているのに時間を気にする
これは時間がのろいから退屈に感じる
空虚放置
駅舎は本来色々な役割がある場所であるので何もない場所ではない
電車が来るまでは退屈と感じる
モノが私たちに何も提供してくれないこと
何かによって退屈させられている
駅舎には駅舎の理想時間がある
何かがもつ時間にうまく適合出来ていない
これが第一形式の退屈rkasu.icon
第二形式
何がその人を退屈させているのか
退屈に耳を傾けていない
退屈に屈せずにただそれにひたっている
タバコを吸うとか
パーティーに行っても楽しめないって話はぼっちだとわかるrkasu.icon
第三形式
なんとなく退屈している
これが一番深い退屈らしい
退屈に強制されている
ラッセルは退屈を事件を望む気持ちがくじかれたものと定義した 退屈するとストレスになる。忙しいとストレスになる
人間とは不完全ないきものやな
勉強するのが一番だって言っていた
そうかもな。rkasu.icon
学ぶことって一番自分のやりたいことに直結していて知れると脳が喜ぶしいいことしかない気がする
一方で勉強しなきゃだと全然だめ
SN(サリエンシーネットワーク)
予測モデルに対して大きく異なる誤差が探知された際に発動。
DMN
デフォルトモードネットワーク
安静時は何もしていない時に発動
FPCN
短期的な行動制御
PTSDや慢性疼痛など痛みの慢性化は以下が起こっていることが確認されている サリエンシーに対する過剰な反応
SNとDMN反省作用の激化
SNとFPCNの結合低下の傾向。すなわち、自動作用の低下。
さて、人はサリエンシーを避けて生きるのだから、サリエンシーのない、安定した、安静な状態、つまり、何も起こらない状態は理想的な生活環境に思える。ところが、実際にそうした状態が訪れると、何もやることがないので覚醒の度合いが低下してDMNが起動する。すると、確かに、周囲にはサリエンシーはないものの、心の中に沈澱していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめることになる。これこそが、退屈の正体ではないだろうか。
國分功一郎. 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) (p. 395). (Function). Kindle Edition.