音MADを見ている
たとえば一つの動画を見た時に、それは音MADを見た、というよりもどちらかというとその動画を見た。という意識に近い。
例え話になるが、普段聴いているコンポーザーの新曲が出されて、その一曲をリピート再生することを「音楽を聴く」というだろうか?というと、少なくとも僕はその言い方をできないと思う。
もちろん、抽出すればそんなことはいくらでもいえるが
ある程度の時系列と幅の中に見出せるあいまいな言い方こそこの「音MADを見ている」になるとするなら、むしろ連結?あるいは点在?どのようなモデルでも、単一の具体からその横断する意味を持つ言葉を主語に扱うことはできないのではなかろうか。
ただ、単一を見ていることそのものは否定したいわけではない。そこから無限に見出せるものもおそらくはあるのだと思うし、それを「見ていない」などと他人が判断するにはあまりにも対話が少ないように思う。
対話の有無にゆだねるのも違いはするが……。
少なくとも1ji.iconは音MADを見ていないといえる。いくらか横断して始めて、なんでこんなに興味や嗜好を無視した意味のわからないものを浴びているんだ……?と気づく瞬間に、ああこれが音MADなのかと、自分のいる場を認識する。