人工物を自然科学的に捉えることへの是非
人が作ったものを分解したり、再現工作したりして、気づかなかった意図に気づくのは楽しい
自然物を観察して背後にあるルールを見出す自然科学的なまなざしを、人工物に対して向ける
ただ、人が作ったもの=作者がいるもの=答えがあるものに対してわざわざ分析的な手法を向けることに意味はあるのか?
robamoto.iconは意味があると思っている。世界のためではなく自分がなにかが「わかる」ことの快感のため
車輪の再発明も学びになる
「こんな賢い仕組みを考えた人がいるのか!」という感激がある
「こんな生命を設計した神はすごい」と近しいのでは?
レゴのスターデストロイヤー(10万円くらいする)を妻と一緒に作った時は、作者の意図が後からわかることの連続で本当に面白かった。
全長1mオーバー、LEGOで組む巨大なスター・デストロイヤーに本物の「優しさ」を感じた話
大胆に省略したり、パーツのカタチを見立てに使ったり、思いもよらない方法で見え方をガツンと変えたりというテクニックが随所に盛り込まれていて、
「これなんだろう……何を組まされているんだろう……」と思っていると、バコーンとカタチが見えた瞬間に「すっげー!!!」と叫んでしまいます。
正直組んでる最中に20回くらい「天才じゃん!」「頭良すぎか!?」「優勝では??」と叫びました。
これまたプラモで言うと「あっと驚く分割で、思いもよらぬカタチができる」という楽しさが満載なんですよね。レゴ。
https://wivern.exblog.jp/29844027/
90年代にあった、テレビゲームに対する TRPG愛好家からの批判の典型「作者の設計した範囲内の冒険は面白みが少ない」と構造が近い
総じてrobamoto.iconは人工物を観察することには肯定的だが、未就学児に対しては自然物の方に興味を持って欲しい気持ちもある。
なんか昭和っぽい感覚かもしれない...
情報量の問題? 自然物は鬼の情報量がある。
世界に対する素朴な信頼と興味を持って欲しいからか