多様性
必要なのはrespectrmaruon.icon
何をrespect?
この件で本当に重要なのは、服装そのものの多様性ではなく、生徒が服装を自分で選んで自由に決めることができることなのです。
「多様性の尊重」というスローガンにとらわれすぎると、人間の権利や自由という本質部分をいつの間にか忘れて、単なる「状態」「性質」を尊重すれば良いかのような、本末転倒で人間不在の発想になってしまう危険がある
要するに「多様性の尊重」ではなく「個人の尊重」が重要だったのです。人間は一人一人違う存在なのですから、個人というのは言うまでもなくもともと「多様」です。つまり「個人の尊重」は「多様な個人の尊重」というのとイコールであり、わざわざ「多様性」という言葉を使わなくても、「個人の尊重」と言えば良いだけだということなのです。 私は半年間、アメリカに住んだ経験がありますが、ダイバーシティ(=多様性)という言葉はほとんど耳にしませんでした。なぜなら、多様性は当たり前のことであり、多様性を前提に「ではどのような社会を構築していくか」が課題だからです。
一方、日本では昨今あらゆる場面で「多様性」や「共生」といった言葉がうたわれています。私は、それが、逆効果になっているように感じています。「みんなちがってみんないい」と言いながら、結局、お互い干渉しないようなバラバラな現状を肯定する言葉になっているのではないか。例えば、「〇〇人」だとか、障害に関していえば、「視覚障害者」という風に安直にラベリングすることに繋がっているように思います。
そうではなく、重要なのはむしろ、一人の人間の中にある多様性です。視覚障害者であっても、家庭ではお父さんかもしれない、仕事上では先生かもしれません。「視覚障害者」という側面は、その人を構成する要素のひとつにすぎません。多様な面があると思えば、関わり方の選択肢も増えるし、自分には見えていない面があるということで、相手を尊重できるようになります。
では、どうすれば、今の状況を変えることができるか。まず、障害者という言葉を聞くと、「配慮」「サポート」「介助」といった発想につながりがちです。時として必要な場合もありますが、そればかりでは押し付けの正義になってしまいます。このような一方的な関係性を崩すことから始めるとよいと思います。
たとえば、先ほど紹介した視覚に頼らないブロックを使ったフェンシングは、視覚障害者と本気で遊ぶことができます。また、やってみると、視覚障害だからこそ得意な部分があることもわかってきます。それにより、障害者というラベルを外した、その人自身の真の姿が見えてきます。
また、多様であるとは、雑然としたカオスが容認されているということです。日本人は、カオスに対する耐性が低いからか、「空気」というもので場を支配しようとしがちです。「この場では、こうふるまうべきだ」といった暗黙のルールを共有し、カオスを許さないのです。たとえば、「この場では、ありがとうございましたと言うべきだ」というように、日本ではすべてが儀式的です。それが、言語や文化の違う外国人や、発達障害の当事者など、その場の空気を読むことが難しい人たちにとって生きづらい社会を作っています。“空気を読まない”とは、勝手なことをするということではなく、儀式性抜きに相手のことをきちんと思いやるということです。
障害に限らず、人種や性別、文化や宗教など、それぞれの違いが人々の心の障壁になるのではなく、「一人の人の中にある生きた多様な側面=多様性」が当たり前に受け入れられる社会の在り方について、今後も考えていきたいと思っています。