膜の再帰としての核と、制御という偽目的性の創発
✅核と所有
哲学では、
肯定
ロックなど
否定
マルクスなど
私的所有をどうすべきか?でなく、、
生命の歴史の中に位置づけよう。
私たちは、私的所有を生命の歴史の中に位置づけねばならない。そのことによって, 【網】 的な世界から内部と外部を分離する 【膜】 と小自由度で大自 由度を制御する 核】 が,繰り返し生まれてくる描像がみえてくることだろう。
Miyabi.iconマルコフブランケットで捉えれば泡でいい。細胞膜も核もマルコフブランケットなので、結局は観測する系のサイズで、環境として定義される作用域の話になる 細胞膜の役割は,必要な化学物質のリソースを囲い込み, それらを他の代謝ネットワークから排他的に利用できるようにするところにある。
Miyabi.iconこの辺がシュミットの〈敵〉概念とのアナロジーソースになる
生命は, エルヴィン・シュレディンガー (物理学) が指摘したように, 内部に低いエントロ ピーの秩序相をつくりだす (Schrödinger, 1944)。
高い化学ポテンシャルのリソースを取り込み, それを代謝ネットワークの中で異化させて、低い化学ポテ ンシャルとして吐き出す。 生命は,こうして比較的低いエントロピーの状態を維持し続けている。 また, 同化によって生まれてきたリソースが外部に拡散することを防ぎ、その中でしか維持できない安定的な代謝ネットワークを空間的に確保する。
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上記を哲学的に捉えると…
細胞膜の内側はひとつのシステムとして自律性をもち、弱い意味での一人称性,主観性が立ち上がりはじめる。 あらゆるプロセスが、膜を維持するという 内的な目的のための手段となり, システムの反応は,その目的を達成するための認知プロセスになるからである。 Miyabi.icon囲い込むという偽目的性の創発がどのように起きているかは、今なら、自由エネルギー原理の情報理論的な生命論の方が合理的な説明に思える。 囲い込むという表現は誤解を産む。マルコフ性を持つ膜が再帰的に生じることによって、あたかも異なる環境が生じるという理解の方が、FEPの視点では自然。 同時にこれはかなり仏教的な捉え方でもある。
☑️自由度による偽制御性の創発
自由度とは,自由に変更できる変数の数のことで,
大自由度なシステムとは,互いに変数が影響を与える複雑な系である。 やがて,大自由度のダイナミクスをもつタンパク質が,DNAという小自由度のシステムから生成されるものとなり、2つの存在に分化することによって, DNA は制御するほうに, タンパク質は制御 されるほうに住み分けられる。 やがて DNA は,核という細胞内器官に取り込 まれる。 DNAと核は, 【制御】の生物学的起源である。
DNA とタンパク質の「書かれるもの」 と 「書くもの」という関係性が立ち上がると, DNAを通して細胞全体の制御が可能になる。
すると制御の主体であるDNAだけが,適応度と淘汰の対象であるかのようにみえる。
こうして生命は、あたかもリチャード・ドーキンス (進化生物学) のいう「利己的な遺伝子」 に乗っ取られた存在かのようにみなされる (Dawkins, 1990)。
Miyabi.iconこれも、シニフィアンとシニフィエの関係性に似ており、制御の関係にみなせるだけで、実際の遺伝子は形質と一対の関係にない,
小自由度が大自由度を制御しているという見方は,制御が一方向ですっきりしたものがごちゃごちゃしたものを決めていると考えたがる人間の認知バイ アスによる錯覚である。
つまり実際は全体としてしか理解できないものが,小自由度による大自由度の制御というみせかけの関係性が認知しやすいので、小自由度が制御の主体だと認識されてしまう。そう認識されることで,その権力がさらに強化される。
この辺はしっかり整理してある。
制御の主体はなく、創発しているだけ
しかし人間の認知は、そうした異なるサイズの系で起きるダイナミック創発を、システム全体ではなく部分でとらえる。