超相対性理論
カリエール(イタリアの劇作家)がこんな話をしている。「傑作は最初から傑作なのではない。傑作になっていくのだ。」みんなの誤読によって多様な解釈が生まれるので、現代はシェイクスピアが書かれた当時よりも豊かにシェイクスピアを読むことができる。傑作というのは器で、いろんな思想を受け入れることができる。
これは考えたことなかった……!そういう意味では古典は重要だし、解釈それ自体が系統樹(→技術の系統樹)を形成しているのか。 他人を誤読していいという余裕が疑心暗鬼をポジティブに変える。
考えるためのフレームワークを導入した途端、考えてない感じがしちゃう
本を読むときには結論が重要なのではなく、そこに至るまでの過程に寄り添うことが重要である
「結章」の最初に「結章から読むな」と書いてある哲学書の話
知識と見識の違い:知ってるだけなのか、考えたことあるのか
結論がありきたりでも、そこに至るまでの道筋にオリジナリティがあれば、十分創造性に近づいている
沈殿を作ってシェイクすると、スノードームのように答えが出てくる。
シェイク:問い
沈殿:知識や経験
でも沈殿を作るのにも何かしらの問いが必要。ただの知識や経験ではなく、一人称でそれを沈殿として削り出したという経験が必要なのではないか?
「学び」ではなく問いを持ち帰ることが重要なのではないか。問い続けるのは難しいけどできるべきだな
これを聴いて思ったけど、 #ミニペーパー で言ってるようなものは大体、問いから始まったあるものの見方を名前にして立項している。1つ推し進めて問い自体を立項してもいいかも。何せペーパーなのだから! 身体が思い通りに動くことは快楽。身体が拡張されてそれを思い通りに動かせることも快楽。言語と権力を持つと、他人を道具のように従えて思い通りに動かすことができ、それも快楽なのではないか。
アラン・ライトマンのDance for twoの話。一人のバレリーナは常に地球と力を及ぼし合いながら、二人でダンスを踊っている。