Actor Network Theory
#単語帳
機械カニバリズムより
ラトゥールの挙げる次のような例を考えてみよう(図1)。市民(人間)と銃(非人間)という二つのエージェントが結びつくとき、両者が合成されて新たなエージェント「市民+銃」が現れる。この第三のエージェントの働きが、第一のエージェント(人間)に内在する意図(目的)に完全に従うと考えると、「善良な市民は銃をもっていても発砲などしない」という道具説的な説明になる。一方、銃という第二のエージェントに内在する「人を殺す」 という機能(目的②)に完全に従うと考えると、「善良な市民でも銃をもてば殺人を犯しかねない」という自律説的な説明になる。
しかし、より一般的には第三の可能性が実現される。二つのエージェントがたがいにたがいの媒介として働くとき、それぞれが元々もっていた目的が「翻訳 (translate)」される。たとえば、相手を殺すつもり(目的)で銃 (エージェント2、その殺傷能力= 目的②)を手にした人(エージェント1)であっても、手にした銃の重さに我にかえって、殺人をやめるかもしれないし、銃を脅迫に使って相手を屈服させようとするかもしれないし、銃で人を撃とうと考えた自分に嫌気がさして自殺してしまうかもしれない。
こうして、あらかじめ存在する目的①、②とは異なる新しい目的 ③(殺人の中止/脅迫/自殺など)が生みだされる。
豊田喜一郎のクオート
結局機械というものは
人間と一体となってはじめて完全になりうるもので、
機械はいつまでたっても機械であり、
人間の力によって本当の実力を発揮しうるものである。
如何によい機械でもそれを動かしうるまでの
訓練が積まなかったら、銘刀も鈍刀と同じである。