機械カニバリズム
#単語帳
久保明教による本。
将棋という具体的な事例でグラウンディングしつつ、テクノロジーと人間の共進化(こう言ってしまうと陳腐だが)という大きなテーマに取り組んでいる。
でも思ったよりフィールドリサーチという感じではない。タイのやつは圧倒的にフィールドだったように思えたけど。まあそっちは結局全然読めてないんだけど……。
ただ自らもアマチュア棋士という立場なので、その視点をフルに活用して書いた論考という感じ。
と思っていたが、途中から棋士の引用で「筆者との対談によると」という記述がバンバン出てきて流石です。
第一章 現在の中の未来
ただし、技術決定論と社会的構成論は、技術と社会を別個の領域として捉えたうえで両者のどちらかに私たちが生きる世界の状態を生みだす最終的な根拠を置く、という点では同型である(いずれに根拠を置くかの違いにすぎない)。両者の対立は、技術/社会という二項対立のどちらの領域がもうひとつの領域の上位に立ち、それを規定するのかをめぐって生じる。これに対して、そもそも科学技術と社会という二項対立を前提とすること自体を批判したのが、一九八○年代から提唱されてきたアクターネットワーク論 (ANT: Actor Network Theory)である。
確かに、AI推進派と慎重派は、どちらも社会と技術の対立を前提に置き、どちらが優先されるべきかを議論しているな。
人間と技術の接続を通じて生じる状況を両者のどちらかを主語として捉えることは、私たちの日常においても頻発する語り口であろう。たとえば、「私たちはICTでビジネスの未来を切りひらきます」といった企業広告や「ゲームが子供を中毒にする」といった警告に見られるように。だが、ラトゥールによれば、技術によって生じるのは、むしろ人間と非人間がたがいの性質を交換しあいながら共に変化するという事態であり、両者はたがいの媒介 (Mediation)となることで新たな行為のかたちを生みだしていく。そこにおいて、人間以外の存在者もまた、固有の形態や性質をもった行為者(「エージェント」「アクター」「アクタント」等と呼ばれる)として、人間を含む他の行為者と関係しながら特定の現実を構成している。
この大きな文脈は全然知らなかった。
→Actor Network Theory
めちゃくちゃ面白い。道具にも人間にもなかった第三の意図が、道具と人間のインタラクションで発生する。その意味でジョブ理論とかはやっぱ何言ってんだって感じだな。発明はインタラクションによってのみ意味を規定される。
→LINEの事例
テクノロジーへの生成
私たちは自律的なテクノロジーに操られているわけではない。だが、自律的な私たちがテクノロジ ―を操っているわけでもない。私たちはテクノロジーを制御などしていない。むしろ、私たちはテクノロジーへと生成している。ただし、ここでいう「生成 (becoming)」とは、そのものと同一になることを意味するわけではない。市民が銃になるわけでもないし、若者がLINEになるわけでもない。市民は「市民+銃」になり、若者は「若者+LINE」になる。「テクノロジーへの生成」とは、 私たちは技術と結びつくことで以前とは異なる存在へと変化するのであり、その変化をあらかじめ完全に理解することも制御することもできないし、現にしていない、ということである。
テクニウムと言ってるのも、それはそれで技術に人間が与える影響を無視しているということか。
多くの人類学者が指摘してきたように、さまざまな動物に囲まれながら人々が暮らす非近代社会では、動物に対する制御可能性と制御不可能性が共存しており、しばしば両者のあいだを現実とも虚構ともつかない存在が繋いでいる。たとえば、エドゥアルド・コーンは、アマゾン川上流域に暮らすルナの人々とジャガーとの両義的な関係性を描きだす。人々にとってジャガーは身近な存在であり、人間によって狩られることもあるが、人間を狩ることもある。そのなかには「ルナ・プーマ」(「ルナ」 は人格、「プーマ」は捕食者およびその典型であるジャガーを意味する)と呼ばれるジャガー人間もいる。 彼らは死んだ近親者など人間の魂をもつジャガーであり、時には人々に食べ物を分け与えてくれるが、人々が狩猟に用いる犬を襲い、人間を被捕食者の地位に貶める危険な存在ともされる。動物と人間を媒介するジャガー人間は、人々が自らを取り囲む森のさまざまな生物とつきあううえで、重要な思考と行為の焦点となっている。
面白すぎ〜〜〜
クロード・レヴィ=ストロースが分析したアメリカ大陸の膨大な神話群が示すように、非近代社会における動物と人間の融合は「いつかの過去」、この世界に存在するものの起源が描かれる場において際だって現れる。これに対して、近代社会における機械と人間の融合は、科学が切りひらく「いつかの未来」において夢みられる。彼方にある過去/未来によって現在を基礎づける営みにおいて人間と非人間の融合が想定されるからこそ、「動物人間」や「機械人間」は人類が生きる現在を規定し、 調整し、改変する契機となってきたのである。
面白すぎ〜〜〜〜〜〜
神話がOnce upon a timeであるのと同様、SFはいつかの未来の話なのか。そしてそれによって「ロボット」という単語が生まれたりAIが発展したりCybertruckができたりする。SFは神話であり逆神話
デカルトの動物=機械説は、その一般的な理解に反して、対象(動物・機械・人間)を外部から分折者(人間)が客観的に分析するような外在的な比較とは言い切れない。機械に関してはその制作者として、生物に関してはその一部として、人間(比較するもの)は比較される対象に内在している。
だが同時に、デカルトの議論はこうした比較の内在性を捨象することで成立している。まず、機械に特定の目的や形態や動力を与える制作者たる人間の存在が捨象されることで、客観的な規則に従って自律的に動作する機械の姿が得られる。そうした機械と類比的な存在として生物一般を捉えることで、目的因・形相因・動力因が生物の内部から収奪され、制作者としての神へと移動する。そして、信仰と理性を通じた神との関係によって、人間の半身である「人間精神」(思惟)が他の生物や人間身体(延長)が属する自然界から抜け出し、「自然の主人にして所有者」としての地位を獲得する。デカルトが切り開いた「機械のカニバリズム」は、機械という他者の視点から自己を捉えることによって、人間を精神(思惟)と身体(延長)に分割する。こうした分割は、両者がいかに結びつきうるのかという有名な難問を生みだしたが、それ以上に困難な問題は、そもそも私たち人間のあり方においてどこまでが「身体」でどこからが「精神」に相当するのかがまったく自明でないことである。
なるほどなあ。この視点から見ると、確かに身体と精神は全然違うレイヤーのものに感じられる。
こうした軌跡の延長線上において、情報処理機械という他者の視点から自己を捉え、機械が処理するデジタルな数列と自らの生を結びつけることで、機械の能力を自らの心身に摂取していく、機械のカニバリズムが現れているのである。
他者と自己を比較し、自己に欠けている他者の能力を摂取するという意味でカニバリズムと言っている。
超越論的な理性において一なるものであるはずの「人間」は、その経験的な多様性において見いだされる、食人や呪術やトーテム信仰といった「一見して非合理的な」実践によって激しく動揺させられる。人類学は、一なるものとして超越論的な人間を一方に置き、極めて多様な経験的主体としての人間を他方に置いたうえで、両者の対立と調停がはかられる場として機能してきた。
その主な調停策の一つが、文化相対主義に他ならない。「自然の事物としては同じものが文化によって異なる仕方で認識され意味づけられる」という文化相対主義の発想は、自然を解明する近代科学に特権的な位置を与えることで、「未開人」と呼ばれてきた人々に、世界を認識し解釈する権能、すなわち「文化」を割り当てることを可能にした。だが、こうした発想においては、異なる仕方で認識される「同じ世界」が自明の前提とされ、どこまでが「同じ世界」でどこからが「異なる認識」なのかの境界線自体を設定する権能が、暗黙のうちに人類学者を含む近代人に与えられている。
こんな批判があったんだ。
この後の「存在論的転回」と「人類なき後の人類学」もめっちゃ面白かった。
第二章 ソフトという他者
将棋という遊戯は、家元制度によってコード化されることで体制の中心と結びつくと同時に、放浪する将棋指しを介してコード化から溢れ出る周縁的な諸要素とも結びついていた。だからこそ「どこの誰が本当に強いのか」は曖昧なままであり、地理的な分割を横断する将棋指しの旅やそれに伴う賭け将棋が価値をもち得たのだと考えられる。
第五章 強さとは何か
対局後、涙ながらに団体戦に懸ける想いを吐露した塚田の姿は、見守る棋士やファンの心を動かした。棋士側の一勝二敗で迎えた第四局に登場し、棋士仲間を団体戦敗北という結果に追い込まないために戦うベテラン棋士。その姿は、「強いとは・・・・・・である」という表現の「・・・・・・」の部分に「仲間想い」という通常はカウントされない要素が入りうることを示すことで、その主体が「孤高の棋士」ではなくむしろ「仲間とともに戦う棋士」であるような、新たな実践のあり方を(一時的ではあっても)立ちあげるものだった。
近年のAIブームにおいては、絵画や作曲や小説といった芸術的活動を担う「人工知能」の開発に注目が集まっている。だが、そこで問題になるのもまた、機械が人間の創造力を超えられるのかではなく、むしろ「美しさ」や「面白さ」や「強さ」といった曖昧でありながらも私たちの日常的な営みにおいて重要な役割を担っているさまざまな観念が、機械的な情報処理との関わりを通じていかに変容していくのか、という問いではないだろうか。
第六章 記号の離床
ただし、第一章で述べたように、過去現在未来という直線的な時間軸に沿って変化を検討するのではなく、近い未来と近い過去で挟み込むことによって私たちが生きる現在がいかなるものであり/いかなるものでありうるのかを炙りだすことが本書の狙いである。
この未来への向き合い方めちゃおもろい。アラン・ケイかもしれない。未来と現在を切り離すことはできない。
「リンクを促進する」というブログの特徴は、より多くの「私」をより多くの読み手と接続させる一方で、異質なコンテクスト間のネットワークに「私」を流出させる。非人称化し複数化した「私」は見知らぬ読み手たちによって捕捉され、元記事のコメント欄へと投げ返される。そこでは、「私」の単一性・自律性を守ろうとするブロガーの意図と、「彼」
を自らのコンテクストに取り込もうとする読み手たち(それはまた彼ら自身の「書く私」の自律性を守ろうとする行為でもある)の意図がたがいにたがいを否定するように働き、書き手の「私」を圧殺する凄惨な快楽を伴いながら、終わりなき「コンテクストをめぐる闘争」が引き起こされるのである。
炎上の表現として過去見た中で一番鮮やかだ