2025/10/02
#日記
そろそろ今年のnoteを考えたい。今書きたい文章!
「デジタルガーデンへの招待」かな
デジタルガーデンという概念を知っていますか?
タイムラインの流れに一喜一憂するソーシャルメディアとは別に、自分用の「デジタルな庭」を作ろうというムーブメントです
ObsidianやScrapboxを使っている人がよく言っているよ。ぼくもScrapboxユーザーだし
よくTwitterが「マイクロブログサービス」と呼ばれていることからわかるように、今のSNSはブログのムーブメントの延長にある
ブログは、今日一日あったことを書き出してみよう、というタイムライン的なもの。
これによって安定的にコンテンツが生産される、と言うとちょっと悲観的すぎるかもしれないが、みんなが何かしらを書いて発信するというパラダイムには合った書き方
noteも、若干ブログ側に戻したSNSという感じ
一方デジタルガーデン( Digital Garden )は、原典によるとタイムラインではなく「トポグラフィ」を志向するべき、と言われている
トポグラフィというのはどういうことかというと、時系列ではない「モノとモノとの関係」によって繋がれたページ群という意味
例えばWikipediaは大量のリンクからできたネットワークで、時系列ではなく構造体になっている
https://gyazo.com/2c6f1eda7ddd87a1338ad2ae927490e3
こういうグラフ的な感じでなくても、「フォルダ分け」がもうトポグラフィ的。ファイルを分類して、ある「場所(フォルダ)」に「配置」することで、意味が生まれる。要するに時系列ではない構造ということ。
Twitterやブログはタイムラインベースなので、閲覧するときにこの構造を意識する必要がない。(こういうものをストリームと読んでいる→本文ではこの単語の導入いらないかも)
昔の個人Webサイトは、タイムラインではなく自分の興味あるトピックが最初にいろいろあり、そこに深掘りしてアクセスしていくという構造になっていたよね。この感覚を取り戻そうとするのがデジタルガーデンです。
個人Wikiのような感じ
トポグラフィということで、「場所」があることによってタイムライン的ではない形で全体を俯瞰できるし、フィジカルな庭をいじるような感じでデジタルな環境に手を入れて、総体として自分の満足いくものにすることが楽しい趣味になる
デジタルガーデンの提唱者は、ソーシャルメディアの「タイムライン的になっていることで、その場の盛り上がっていることに一喜一憂して、すぐに忘れてしまう。思考が深まらず、感情的な話題に支配されてしまう」という欠点に言及している。
SNSで気になったことは、すぐに自分のデジタルガーデンに書き込んで、タイムラインではなくトポグラフィ的に「位置」を与える。例えばウクライナ戦争についての衝撃的なツイートがあったら、タイムラインに投稿するのではなく、自分のデジタルガーデンの「戦争」という場所に書き込んでおくことで、また戦争について考えようと思ったときに参照できるようになる。
そうやって時間をかけて自分の内面を育てていくという使い方を紹介していた。
これはとてもいいことなんだけど、実際見る側にとってはタイムライン的であったほうが楽ちんだよね。自分からトポグラフィを掘って見に行く、ということは認知負荷が高い。書き込む際にも、今からどこに書き込もう?と考えてから書き込むより、単一のタイムラインに放流するほうが楽である。だからみんな何も考えずTwitterを開いてしまうのだろう。
だからどうやら、タイムライン的なデジタルオブジェクトと、トポグラフィ的なデジタルオブジェクトの間には、何かしら利点・欠点 / トレードオフが存在するようです。これはSNSやWikiなどの知識メディアだけでなく、もっと根本的にソフトウェア全体の中に潜む対立関係です。あなたが今これを読むのに使っているパソコンやスマートフォンにも、数えきれないほどのタイムラインとトポグラフィが存在している。この記事ではそれを解き明かしていこうと思っています。しばしお付き合いください!
前座なげ〜
物質性・アイデア性の話
タイムライン的・トポグラフィ的なものは、GUIにも存在している
以前、iOSのアプリスイッチャーはタイムライン的、ウィンドウはトポグラフィ的(というか、物質的)という話をした。
ハイパーリンクで繋がりまくっているようなものは、単純な物質とも結構違うのかもしれない
じゃあフォルダは??難しいね、曖昧にして書くしかないか
タイムライン vs. 非タイムラインの対比ではあるから、書けないのももったいないと思うんだけど
タイムラインになっていると、どんどん流れていくので「管理」しなくていいという嬉しさがある。まるで思考の流れをそのまま反映しているような。まるで頭の中のアイデアのように浮かんでは消える。タイムラインはアイデア的なのです。
一方デスクトップは、「管理」しないとすぐに散らかってしまう。ただその面倒さと引き換えに、複数のウィンドウを並べて見比べたり、「あっちに置いたウィンドウ」というように空間的に記憶したりできる。これは現実世界の物体にそっくりです。そう、トポグラフィは物質的であるといえます。
このように、アプリ一覧という同じことを達成するにしても、タイムライン的になったりトポグラフィ的になったりする。これは実は、コンピュータを「脳の延長」と捉えるか、「操作対象の物体」と捉えるかに起因していると思っています。
脳の延長としてのコンピュータ vs. 操作対象物体としてのコンピュータの話
本来コンピュータはただ記憶や計算ができるだけの機械です。でも人間はそこに意味を見出してきた。それをメタファと呼びます。
例えば、今支配的なメタファの1つとしてデスクトップメタファがあります。これはデジタルなエンティティを机の上に置かれたオブジェクトのようなもの、現実世界の物体のようなものとして捉えるものです。
一方で、コンピュータを脳の延長だとみなす派閥も長い歴史があります。
Memex
Lifestream
Lifestreamでは、今頭の中にあるタスクが目の前にあり、それを遡ることは「思い出す」ことに相当する
超軽工業(想像世界)
すなわち、このサイクルの回転のよさは、「人が考えるかのごとく」の性能の向上である。人にとってよいソフトウェアとは、よいUIが設計されているかであり、よいソフトウェアは想像に集中できるものである。
「想像に集中できる」とはどういうことなのだろう?
ここで考えないといけないのが、思考をただ垂れ流すだけでは役立つようにはならないということ
当たり前だが、例えばコンピュータを使って機械設計する人は、コンピュータを使って思考した結果として、思考のタイムラインではなく何か単一の設計図(=トポグラフィ)を完成させることを目的としている。タイムラインをひたすら伸ばすことは目的ではなく手段。
論文を書く人も、ただ思いついたことを書きつけていくのではなく、あるトピックに基づいた論理結合の塊(=トポグラフィ)を書くことを目的としている。そのような塊を作るために、下書きを何度も書いて遂行するのである
知的作業をすることを、「タイムライン的な思考から、何かの塊であるトポグラフィを作ること」と定義してみる。
人間が一度に一つのことしか考えられない以上、どんな思考もタイムライン的になるはず
そして自分とは関係ない誰かに共有する製品は、トポグラフィ的になるはず
どのパートを支援するのかに思想が出る
例えばフォルダを整理して共有するタスクを考えてみる(これは論文のロジックを練って書く順番を考えるタスクに似ている)。
「全体としてこんなフォルダ構造にしたいな」→「そうなるとこのファイルはあそこにあったほうがいいな」→実際に移動してみる→「やっぱりこっちにあったほうがいいな」
タイムライン的な思考(の連なり)→外部のトポグラフィへの反映→またタイムライン的な思考(の連なり)、の繰り返し
思考の後には、さらなる思考が来る場合とアクションが来る場合がある
FigmaのようなGUIツールは、完成予定のトポグラフィのプレビューを提供する。完成品がどうなる予定かを見ることで、タイムライン的な思考を促す
一方でタイムライン的な思考の連なり自体を促すソフトウェアもある。Scrapboxでメモするという行為はまさにそうだし、Lifestreamは……
話散らかるな
タイムライン的な思考をなるべく妨げずにアウトプットさせよう、というソフトウェアと、それを考えた上で操作するトポグラフィのプレビューを提供しよう、というソフトウェアがある
脳の状態をそのまま反映するならタイムライン的になるし、それを加工する作業場にするならトポグラフィ的(というか物質的)になる
プログラミング言語の話
リジッドなソフトウェアの話(Cognitive Dimensions)
SaaSの構造的欠陥:プロプライエタリな「環境」であること
「環境」は期せずしてトポグラフィ的な表現だな!
Malleabilityの話
ソフトウェアをタイムライン的にする事例
Siri, App Intents
ChatGPT Canvas
タイムラインとトポグラフィの行き来の話
GitHubの話しちゃうか??
AIがタイムラインとトポグラフィを仲介してくれる話
ChatGPT Canvas
Claude Code
Mercury OS
結局どうなっているべきなのか
物質としてのドキュメントに直接触れるのは素晴らしいこと
でもそれがドーパミン中毒を産んでいる側面があったり、Walled gardenの外に行けず苦しむ場面があったりする
一方タイムライン的なものは、認知負荷が低くなる一方でその場のノリに左右されてしまうことが多い
いい感じに使い分けて、往復ができる状態がいいよね。認知はタイムライン的、最終的に形成したいものは物質的であることを認識しておく
これは大変なことになりそう。魂をかけて書きたい
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「タイムライン」と「アイデア」は綺麗に対応できているが、「トポグラフィ」と「物質」は綺麗に対応していないような気がするので議論がごちゃっている。トポグラフィの定義を調べよう。
トポグラフィ的:「場所」があること?
結局原義ではトポグラフィの意味は語られていなかったが、フィジカルな場所のようなものがあるということだろう
The Garden is the web as topology. The web as space. It’s the integrative web, the iterative web, the web as an arrangement and rearrangement of things to one another.
モノを配置したり、それを並び替えたりする場所としてのWeb
Wikipediaのページに「フィジカルな場所」はあるのか……
Things in the Garden don’t collapse to a single set of relations or canonical sequence, and that’s part of what we mean when we say “the web as topology” or the “web as space”.
結構厳しい要件を立てているな。これは別の人がリミックスできるという話に基づいたものかな
Digital Gardenのpractitionerが、いろんなナビゲーション構造を検討している: https://chuangcaleb.com/notes/public-digital-garden/public-garden-navigation/
タイムラインと違うのは、順番がなく何かしらの配置・関係をもったもの
The Garden and the Streamでは、Memexはむしろトポグラフィ的なもの、自分の脳内の連関を表現したウェブということになっているんだよな。
だから「タイムライン」と「アイデア」も対応していないのかも
アイデアを生み出す意識の過程はタイムラインだけど、できあがったアイデアのプールは相互に連関したトポグラフィだ
意識タイムライン