手の倫理
#単語帳
伊藤亜紗の本。
マジでめちゃくちゃいい。
セーラーは体に直接風があたっていなくても、いま風がどのように動いているかが分かる、と言います。達人レベルになると、船室で寝ていても「いまの風に見合うような加速がないな」などと一瞬で気がつくことができるそう。つまり、セーラーは船室にいながら、海、そして船体を通して、自分を取り囲む大きな風の動きにふれているのです。海や風が透明化する、まさに「奥にある動きを感じる触覚」です。
これは非常に重要な指摘だと思った。確かに「道具が身体化する」とか、「道具が体の延長になる」とか言うとき、実際に体の延長であることを感じているのは触覚だ。ペン先に意識が行くよね、と言ってるとき一番それを感じるのはやはり触覚だろう。なぜなら視覚だけでは、自分の体がそうでないかという区別は曖昧だから。VRでも触覚がないとやっぱダメだ。レイキャスティングのホバーでバイブレーションが来るとかはあるな。
棒押しについて
もちろん、相手の体に直接ふれることによって得られる情報もあるでしょう。けれども、棒をあいだに挟むことでやりとりの自由度が限定され、かつ肌ざわりなど表面についての情報が入ってこなくなります。その結果、逆説的にも、その奥にあるものに到達しやすくなっているのです。
全盲で自立するために、不特定多数の人を一時的に信頼することを覚えたら、結婚相手を長く信じ続けるのが難しくなった人の話
どんな言葉を言ってもらっても、それによりかからない自分は何なんだろうかとも思うんです。響くんです、すごく。でも怖くてそっちに飛び込めない。その度が過ぎちゃったときに、その三年間は取り戻せないんですけど、もう引き返せないところまで来たときに、ああもうやめよう、生き残る、ということを考えるのは、と思いました。
生き残ることを考えるのはやめよう、という決断は自分には響いた。それが優柔不断さにもつながっているわけだから。どんなテーマにもよりかかれない自分を見ているようではないか。
もちろん「見える」と「見えない」という違いはあり、安全を確保する役割は基本的に伴走者の側にあります。だとしても、腕を前後に振るリズムを合わせ、いつしか体調や気分までもが同調してくると、「してあげる/してもらう」のような、「2」の関係が乗り越えられてしまう。
目が見えない側は何を提供しているのだろうか?体を相手と共鳴させることで心地よさを提供している。楽器としての体のコントロール権を提供しているのかな。見えない側の意思、感情、体からなる自分自身を預ける、ということがすでに価値になりうるということ。情報のやり取りがないスモールトークも楽しい、みたいな。
なぜ声かけは「ストレス」なのか。ひとことでいえば、それは言葉が共鳴に対する「切断」だからです。走っているさなかに「カーブです」と声をかけることは、「カーブがくるから準備せよ」と前もって警告することに他なりません。つまりそれは、「二人で一つ」の共鳴を脱して、「自分でもしっかり注意してね」と、「個」のスイッチを入れることなのです。
おもしろ
とてもいい本だった。手(触覚)を視覚中心世界へのオルタナティブとして、昨今の「生きるための哲学」の視点に立つことでその素晴らしさに光を当てる。
「目の見えない人は世界をどう見ているのか」の人だったとは。こんな文章が書けるようになりたい……