読むことについて
本が読者を作る
本が世界をつくる
本が多様な読みを作る
一冊の本を読むことが読書ではない
本はたくさんあるから意味がある
本は人である。本は人が生み出す。本は人に読まれるために生み出される。
本は人なり。
本が書き手を作る
本は、感想を作る。本は疑問を作る。本は対話を作る。
集中力を持って読む
疲れていては本は読めない。だとしたら?
◇電子書籍の利用率は25.2% ~ 文化庁 平成30年度「国語に関する世論調査」より | HON.jp News Blog
一ヶ月に一冊の本は読了できるか
可処分時間を計算してみる
捻出できるか?
一冊の本を読了するのに必要な時間
細切れになる、という点を考慮すること
無限に本は読めない。常に足りない何かがある。
「社会的反抗としての読書」
希望とは想像であり、想像力が抑制される中では希望も窒息する。
見るは視るや観るで、聞くは聴くでニュアンスの違いを示せるが、読むにはそれがない(詠むは別の意味を帯びる)。前者らは直接感覚であり、後者はそうではないからだろう。
二つの極の片方だけが強められた状態はいびつさがあるだろうと予想できる。で、ある時期からのインターネットは、語ることばかりを強めてしまったのではないか。聴くことの修練や開発する場を提供してこなかったのではないか。
今「半年ROMってろ」などと言ったら、排他的・閉鎖的などと評されるだろう。しかし、じっくり耳を澄ませることはたしかに必要なのである。
聴く力が弱く、語る力だけが強いのは、二階建ての建物の二階だけがある、みたいな不安定さがあるのではないか。
物語を読み替える力とは物語を語り直す力とイコール
相対化しておわり、というわけではない、ということだが、あるいは「弱い相対化」と「強い相対化」があると考えた方がいいだろうか。
たしかに電子書籍派の人は、「なかなか電子書籍にならない(でも、紙版は出てるのに)」的やきもきがあるわけですね。
「ネットは広大」かもしれないが、書籍文化も十分広大なのであった。
たとえば、洗濯機に「掃除機の機能がついていません。星1つ」みたいなレビューがつくことはないと思うけど(あくまで推測)、書籍だとそれと似たような構図のレビューを見かけることがある。
でもまあ、それが、つまりその越境性が書籍の力なのでもあろう。
自己とは触媒である
「読む」とは自分に引きつけて解釈することである、ということを前提とすると、ではそこから何が言えるであろうか。
僕は釣り好きの人が「釣りっていいよ」と勧めるのと同じくらいのテンションで「読書っていいよ」と勧めております。特に啓蒙的意図がその背後に……まったくないわけではないですが、趣味的な要素の方が大きいですね。
アカデミックな研究を目指すのでもなく、「教養」というラベルで競争に有意に経つためでもなく、単にそれを知ることが楽しい、という意味おいてこうした本を読んでいくこと。