弱くて、見えにくい僕ら
生き延びるために必要なことは何か。人はそもそも死すべきさだめを背負っている。生に固執するあまり、視野その他の病を必要以上に恐れてしまうのは避けたい。しかし、どう生きてもそれで良いときっぱり言い切れるだろうか。
たとえば、人間らしく生きたいと望むこと、自分の力を発揮し、達成感を得たいと願うことは、滑稽なことだろうか。私はそうは思わない。すべての人に同じ成果を約束することはできない。“誰に”でもできるなんて謳い文句は聞き飽きた。それは率直にいって欺瞞でしかない。ある人には能力があり、恵まれた環境があり、幸運がある。別の人にはない。”ある人は歌える”
それ自体はどうしようもないことである。だから、もともと恵まれた環境にいる人のことは考えないようにしよう。コンサルタントやセミナー代金を支払ってなお余裕な顔をしていられる人は、別の人に助けてもらえればいい。一方、いま文字が読めない人までを助けることもできない。それをなしうると考えるのは傲慢だろう。私はこの本を極めて限定的な人に向けて語ろうとしている。それがこの本における「僕ら」だ。でも、案外そういう人たちは全国各地にいて、見えにくいだけなのかもしれない。私たちは見たいものだけを見る。共同幻想によって立ち上がる現実。イマジネーション・リアリティー。 マスメディアから捉えられていない人たち、そしてそういう人たちは今後少しずつ増えていくのかもしれない。なぜそう思うかは、また本文の中で触れてみようと思う。先回りしておくと、社会は少しずつ変化しているからだ。