希望の学習
まず最初に、ラットは一匹ずつガラス瓶に閉じ込められる。もちろんラットは自力ではそこからは逃げ出せない。そこに冷酷にも水が満たされていく。当然、ラットは泳がないといけない。でないと溺れてしまう。呑気に水面に浮かぼうとしたら、頭の上から水のシャワーが吹きつけられ、ラットを水面下にたたき込もうとする。つまり、「泳ぐか、あるいは死か」の状況なわけだ。
泳ぎ続けている間だけは、生きていられる。体を休めれば溺れ死ぬしかない。
その実験では、ラットが泳いでいる時間に個体差が見られたようだ。長く(60時間)泳いでいるラットもいれば、すぐに泳ぐのを諦めたラットもいた。きっとその中には、ハリウッド映画の主人公のように最後まで諦めずに泳ぎ続けるラットもいたのだろう。もちろん、MOBのように早々に、こんなの絶対に無理だと__そう、そのラットは冷静に現実を認識している。なにせその瓶からはどうやっても逃げられないのだ__投げ出してしまうラットもいたのだろう。
一体全体、その行動の違いはどこから生まれているのだろうか。ラットの秘めたる信念?
ネクスト・ステップ
ここで実験は、次なる段階に進む。
ガラス瓶に閉じ込める前に、ラットを掴まえた後、何度か逃がすという「準備」が行われた。また、ラットを瓶に入れ、水シャワーを浴びせた後、瓶から取り出してケージに戻す、ということも数回行われた。そのラットたちは、ある種の「経験」を経てきたわけだ。 しかし、最終的にはそのラットたちも脱獄不可能な水瓶に閉じ込められる。水が満たされ、シャワーが吹きつけられ、泳ぐのを止めたら即座に死んでしまう。準備段階で体験してきたような、救いの手はまったくやってこない。
だが、そのラットたちは、みな体力の続く限り泳ぎ続けたそうだ。まるで、そこから逃げ出せる可能性がわずかでもあると信じているかのように。救いの手が差し伸べられるのを待ち続けるかのように。
もちろん、そんなものはやってこなかったわけだが。
小さな成功体験
実験の「準備」段階で行われたのは、「希望の学習」とでも呼べるものだろう。
ラットは一度困難な状況に置かれ、そこからの脱出を体験する。そして、それが何度か繰り返される。ラットたちは、その経験を通して、今は困難な状況にあるが、この状況は改善されうるものだ、という認識を得る。だからこそ、状況が変わるまで泳ぎ続ける行動が取れた。ようするに、セリグマンの「学習性無力感」の逆のようなものが獲得されたわけだ。 問題は、この学習された「希望」をどのように評価するのかだ。 皮肉な見方をすれば、次のようにも考えられる。
ラットは、ちょっとした「成功体験」を積み重ねたおかげで、助かる見込みがまったくない水瓶の中で、死ぬまで抗い続けてしまった。犬死にならぬ、犬努力だ(実際はラットだが)。これはまるで、最初の1000円で大当たりを「体験」してしまったために、有り金全部をパチンコに突っ込む人と同じではないか、と。
実際、世の中を見渡すと、どう考えても望みのない道を全力で邁進している人を見つけることができる。周りから見れば、非常に愚かしい。だって、ガラス瓶からは逃げだせないんだぜ、という嘲笑が聞こえてくる。
でも、その当人はどこかで小さい成功体験を経験してしまったのだろう。希望を学習してしまったのだろう。そして、私たちは他人から「希望」を奪う権利を持ち合わせていない。それが道徳的な行為なのかすらわからない。だから、止めることはできない。
ラットは、水瓶の中で、何の意義もないのに最後まで泳ぎ続けている。
勇気あるものが導く社会
彼はその著書『逆転! 強敵や逆境に勝てる秘密』の中で、「子ども時代に心に深い傷を負いながら、それを乗りこえてきた人がいないと、社会は成りたたないのか?」という問いに対して、イエスと答えている。つまり、困難な状況に置かれながらも、なお生き残った人が学習した「希望」がないと、社会全体がどこかで立ち行かなくなってしまうというのだ。 言い換えれば、ハリウッド的主人公が__少なくとも何人かは__この社会には必要だ、ということになる。強く「希望」を学習した人たち、言い換えれば本当に死に直面しながらも生き残った人たちの振る舞いは、そうではない人たちから見れば勇敢に思える。勇気があるように思える。そして、時と場合によっては、その勇気がないとできない決断がある。
極端な例を考えよう。社会全体の構成員が一度も「希望」を学習していなかったとしたら、どうなるだろうか。きっと、「慣例」「習慣」を超えるようなもの・変えるようなものはすべて疎外されるだろう。地球が回っている、というアイデアを思いついても、誰一人としてそれを口から外にこぼれ落とすことはない。
ときに周りから、あるいは世界中から無謀だろうと思われるような行為でも、一歩踏み出す人間が社会には必要なのである。
さいごに
二つ言えることがあるように思う。
一つは、それが脱出不可能なガラス瓶なのかどうかは、事前にはわからない、という点だ。ラットには観察者がいた。しかし、私たちにはそれがいない(いるかもしれないが、その観察者と私たちとは直接的な情報の交信はない)。ある行為がどうしたって意味のないことなのか、体力の続く限り泳ぎ続けているうちに救いの手がやってくることなのかは私たちには確認しえないのだ。
だからこそ、希望の学習を軽んじてはいけない。学習された希望を無知なものとして、無謀なものとして退けてはいけない。それが、社会に大きな変革をもたらすかもしれないのだ。
だからといって、その全てを甘んじて受け入れる必要もない。ダメなことは、やっぱりダメだと言わなければならない。社会というのはそういう力の押し合いの中で生まれ、維持されていくものなのだろう。
もう一つは、絶対に逃げられない水瓶に閉じ込められたとして、体力の続く限り泳ぎ続けるのははたして本当に無駄なことなのだろうか、という点がある。どうしたって死ぬなら、疲れる前にジタバタすることなく死ぬ方が良い、という考え方もあるが、ジタバタ泳ぐことこそが生である、という考え方もできる。
社会にもたらせられる変革とかそういう小難しい話はおいてき、まああがけるだけジタバタあがこうじゃないか、という考え方で人生に意味づけをすることもできる。
もしかしら、それを希望と呼ぶこともできるのかもしれない。
初出:2015年1月12日