壺と座
壺
綺麗に焼き上げられた壺。芸術としての芸術。道具性の彼方にある作品。
その功罪から話が始まったわけですが、結局のところ「壺ばっかりだったら面白くないよね」という意味合いでの壺の否定だったのに、むしろ現代ではそれが過剰につきぬけてしまい「容器(≒道具としての容れ物)ばかり」になってしまっている、というところに問題があるのだろうと思います。
つまり、ある種の緊張関係(矛盾と言い換えてもよいでしょう)が消失しているわけです。そりゃ、面白くないですよね。
壺をあがめるばかりもおかしいが、かといって容器ばかりになってしまって、「容器とはなんぞや?」という問いが立ち上がらなくなるのもちょっとおかしい。互いに相手を否定するようなものが、なぜかしら共存していること。そういうものが消えつつあるのではないかと感じました。
でもって、これは他の話にも広がっていきます。
物語の道具性が強まれば、物語の多様性は貧弱になります。機能だけで測定される物語の形は均質化していくのです。そこでは、人は、同質性の強い物語に取り囲まれることになります。
結果、読み替えが阻害されます。ある物語が、別の形でありうるかもしれない、という想定を広げていけないのです。道具としての物語は、一つの物語の中に人を閉じ込めがち。そういう言い方もできるかもしれません。
そしてこの「かもしれない」の貧弱化は、いわゆるクソリプ的なものにも接続します。自分が一番最初に読み取ったものが「正しい」のであり「相手の意見である」という風に世界が構築され、それ以外の可能性が検討されません。「かもしれない」のハシゴを登って、第一印象の世界から脱することができないのです。
さらにその読み取りが、自分と世界に関係する物語であり、しかもそれが闇色に染められているとき、単なる失礼な態度とは別次元の厄介な問題を引き起こします。
多様な物語・緊張関係・矛盾は、世界を揺さぶります。「おい、それって、ほんとうかよ。かもしれないがあるんじゃないか」と迫ってきます。それはたいへん不快で、不安で、ときに傷すら生むのですが、それでもハシゴを掛けてはくれます。あるいは、それを登って別の風景を見てみたいという欲望を刺激します。
無意味さ、というのは道具性の欠如であり、それは道具的な世界をかき回します。しかしそれもまた、「世界をかき回す道具」として固定化されるときがやってはくるでしょう。そのときはまた、別の無意味さを持ち出す必要がありそうです。
放置していれば固まってしまう半固形状のものを攪拌し続けること。
何かそのようなものが必要なのだと感じます。
座
私は「場」(ば)という言葉をよく使うのですが、「座」という言葉とは距離がありました。集まりや、つどいの席といったくらいの意味合いでしょうか。「席」という言葉にも近いですし、「会」という雰囲気とも相性が良さそうです。
で、当然のように「座の座性とは何だろうか?」が疑問となります。
お話の中で出てきた、東京マッハやプロレスというものを頭の中でイメージしてみると、「多くの人が一堂に会し、リアルタイムで何かが進行している」ということは言えそうだな、ということがわかりました。また、質問へのお答えから、その場に参加する人たちを参加者が選んではない(結果、雑多な集まりになる)ということもありそうだな、と感じました。隣に座る人が、全然知らない人(≒異物)であることも十分ありうるわけです。
自分から見て、まったく無意味な人たちの集まり。
でも、決して無作為に集められたわけではなく、ある享楽への指向性を共有する人たちが集まった、というその空間。当然それはフラットな集まりになるわけですが、Twitterのようなのっぺりとしたフラットさではなく、「壇上に誰かがいますよ。その人が進行していますよ」という一応の形式はあります。もちろんそれは、話を前に進めるための形式であって、絶対的に固定されているわけではありません。ちょっとしたことでゆらいでしまうような境界線です。でも、だからといってそれが不要というわけでもないのでしょう。ある種の緊張関係。
でもって、その空間が、一時的・限定的・期間的なものである、ということも要件に入る気がしています。あるとき集まって、終わったら解散する。会が開く。そして日常に帰っていく。そして再び集まる。そこにある、行ったり来たりの感覚が案外大切ではないのかと。
それが日常化してしまえば、共同体に変質してしまう恐れがあり、それは別の形での固定であるわけですから、ある種の限定性と行ったり来たりが攪拌し続けるためには必要なのだろうと思います。
で、私の一番の疑問は、そうした「座」をネット空間に作ることができるのかどうか、ということです。もしそれができたら、結構面白いことでしょう。
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