ロールモデルの呪縛と自由に生きること
ロールモデルの呪縛と自由に生きることについて考える。
まず、ロールモデルはミームのように引き継がれていく。親世代の生き方を見て、子どもは生き方について学ぶ。直接教えられることもあるだろうし、何となく見て学ぶということもあるだろう。上の世代の8割が、ある生き方をしている場合は、その下の世代の8割近い人が同様の生き方を選択するだろうし、また、それが普通なのだと感じられるはずだ。
しかし、現代は変化が大きく、個別性も高まっている。親の世代の生き方がうまくいく生き方であるとは限らない。にもかかわらず、それが”普通”であるという感覚だけが残ってしまう。そのことは、単に情報不足をもたらすだけでなく、「こういう選択をするのがただ石」というある種の規範としても機能してしまう。実際には何の役にも立たないロールモデルに従うことが正しいと、自分自身も他者からのまなざしに含まれてしまうようになる。それがロールモデルの呪縛である。 ロールモデルの呪縛があるとして、では、"自由に生きればいい"のだろうか。二つ問題がある。一つは、人は真似て学ぶことだ。自由に生きるといっても、何らかの選択派必要なわけで、真似る対象がまったくないと困り果ててしまう。たとえば、私はいま自由に日本語を操っているわけだが、それは日本語を学んだからである。そしてそれは誰かが話していたあ日本語がお手本(あるいは素材)になっている。ロールモデルとまではいかないものの、生き方に関する情報がないと自由に生きる=自分有りの生き方を組み立てていくことは難しい。 さらにもう一つの問題がある。それは、少しビジネスに関係している。ある人が言う。”自分らしい生き方をしよう。ロールモデルなんて役に立たない”。それはそれで半分は正しいのだろう。しかし、当人が言っていることは、「自分らしく生きている僕のことをロールモデルとしてください」である。つまり、旧型のロールモデルから、新型のロールモデルに乗り換えることを提案しているだけだ。しかし、なぜ、その新型のモデルであればうまくいくのかの説明はない。「だって、俺はうまくいっているし」が理由だとすれば、高度経済成長に最適化された上の世代とまったく変わりがない。速度が速く、個別化・多様化が進む現代においては、他人のロールモデルがあてにならない可能性高い社会だったのではないか?