ブックカタリストBC106用メモ
テーマ:『訂正可能性の哲学』と自己啓発
前半は本の概要紹介、後半はそれを受けての倉下の話
本書はどんな本?
ざっと一言でいうと
「家族」という言葉のそれまでの哲学・思想における扱い。それを脱構築する試み。
→共同体について語る言葉(概念)を変える
新しい言語ゲームをはじめる
第1章 家族的なものとその敵
章題から連想されるように(なめらかな社会とその敵)、ポパーが取り上げられる
思想や哲学では、旧来から「家族」なるものが攻撃されてきた。自由・個人主義からも攻撃されるし、共産主義からも攻撃される。プラトンの『国家』においても、家族ではない国に仕える者の在り方が理想として語られる。カール・ポパーは、そのプラトンを批判したが、その批判にはねじれがあった。 何が内で何が外なのか?
エマニュエル・トッドの家族と社会体制の関係を補助線にして、著者は、我々は「家族」敵なものの外側には出られないのではないかと議論の出発点を設定する。 一つの「家族」批判は、別の家族的モデルからの攻撃に過ぎないのではないか、と。
第2章 訂正可能性の共同体
「家族」という言葉で哲学の分野で思い出されるのがウィトゲンシュタインの「家族的類似性」。その紹介を経て、(「家族」という言葉を使っていない)クリプキの共同体論へとわたっていく。訂正というキーワードはここで注目される(ウィトゲンシュタインも重なる部分はある)。
一般名と個有名
ゲームとルールの関係、外部を占め出すこと。ルールを共有していながらも、そのルールが外部によって書き直されることが起こるような共同体。そうした変化がありながら、皆が同じゲームをプレイしているような感覚を覚えるような状態。そうしたものを「家族」という言葉に新しく見出していく試み。
それ単独で確定できるものは何もない、というのはコミュニケーション論でもあり、不完全性原理も思い出す。すべてには孔が空いていると言えるだろう。
第3章 家族と観光客
この章は少し短め。ここまで確認してきた「家族」という概念と、前著の「観光客」という概念が接続される。
訂正可能性に支えられた「家族」においては、決定的なことは何も言えない。いつでも外部者がやってきて、そこで行われているゲームを訂正してしまうかもしれない。その意味で、中途半端な状態に置かれてしまうことは前章でも確認された。それは、前著で確認された、政治的には内でも外でもない観光客の在りようと等しいのではないか。そうした議論が行われる。「家族」と「観光客」は、共に訂正可能性という性質において共通するのではないか、ということだろう。
第4章 持続する公共性へ
アレントが言及され「公共性」という概念が検討される。単に開いていることだけでなく、持続性のあることが重要であるという指摘は、現在のTwitterが公共的プラットフォームではなくなりつつある点からも頷ける。
かなり政治的な内容に踏み込んだ章。訂正可能としての人文学の役割が触れられているが、それはそのまま民主主義の話にも接続していくことが予想される。
線引きしないことを目指すのではなく(それは人間の認知からいって不可能に近いだろう)、引いた選を引き直せることが現実的な方策になるだろう。
第5章 人工知能民主主義の誕生
社会の複雑化と情報技術の発展によって期待される、人間によらない統治としての人工知能民主主義。それは異端というよりも、ルソーのような人間嫌いの思想家の流れをそのまま引き継いだものとして捉えられる、という出発点が示される。
ルソーの「一般意志」概念を再定義した上で、そこから安直なルソーの読解から導かれてしまうビッグデータ的な政治の内実が論じられる。PSYCHO-PASSの世界がすぐに連想される。 一般意志は事後的にに見出される。そこにはゲームがある。しかし、人工知能民主主義にはそれがない。その危うさが指摘される。
訂正可能性を持たない、ということ。
情報技術の発展と、民主主義の理念のストレートな実現
全体主義の肯定、あるいは人間至上主義
人間の統治能力そのものへの失望を前提とした民主主義の構想
人工知能民主主義
第6章 一般意志という謎
ルソーの「一般意志」という概念を当人の人間性や他の著作を踏まえながら再解釈される。自由な個人の肯定と、社会の肯定というねじれから生じる、遡行的に見出された(構成された)ものとしての「一般意志」。その訂正可能性を見失っていては危うい、と。
「一般意志」にはすべてが賭けられている。にもかかわらず招待は謎に包まれている。
第7章 ビッグデータと「私」の問題
ビッグデータは、「私」という固有性を扱うことができない。それはそのまま主体化が起こらないことを意味し、それが民主主義において問題を持つ。ここで提示さられる、訂正可能性と主体化のつながりが、個人的には重要に思える。
第8章 自然と訂正可能性
芸術を否定していたはずのルソーが書いた『新エロイーズ』の読解を中心に、ルソーの中にあったであろう素朴な自然と人工的な自然の対比が確認される。ルソーは「自然」を重視したが、それはありのままの自然ではなかった。ここで「自然」なものもまた上書きされる。外部にあって絶対的なものでありながら、内部から相対化され書きかわっていくような両義的なもの。というか、両義的だと人には思える(そういう認識しかできない)ということなのだろう。
第9章 対話、結社、民主主義
健全な統治を維持するために、無数の「小さな社会」を存在させなければならない。喧騒ある、私的で、理性的ではないかもしれない終わりなき対話。
その終わりなき対話は、持続する場とともにあるのだろう。革命的リセットではなく、間違えながらも正しさに向かい続けていくその動きの中に。
終わりなき脱構築
自己啓発
脳が外界に対応する二つのアプローチ
アフタートーク
読書日記が役立った、オーディオブックも役立った
姪っ子に数学を教えたときの話