タイムラインはときめかなくても構わない
テクノロジー業界にいたタンにとって、Twitterは仕事でもプライヴェートでも重要な存在だった。しかし、そのときの彼には、タイムラインがデジタルごみの山にしか見えなかった。お義理でフォローバックしたアカウントや世界中から押し寄せる不穏なニュース、もはや物足りなさしか感じられない大物オピニオンリーダーたちの発言といったものだったからだ。
たしかに名刺交換の代わりとしてのフォローバックみたいなことをしていると、タイムラインはどんどん面白くなくなっていく。
自分の興味に関係ない話題が流れてくる
Twitterですごい有名人だからフォローするみたいなのでも同じ
自分の目に入ってくる情報をコントロールすることは、現代の基礎的な生活力の一部だとすら言える。
が、案外これが難しい(リムーブには心理的抵抗感が発生する) だからこそ、上記のような手順を踏んで(≒自分に何かを言い聞かせて)、フォローをはずしていくという儀式は一定の効果を持つだろう が、それはそれとしてタイムラインが「ときめき」で満たされたら、大いなるフィルターバブルが到来する 社会とは、「ときめかない」人たちとの共存であり
そうした他者(身内や共通のクラスタでない人たち)への、一定限度の理解は必要となってくる
もちろん、Twitterをどのように使うかはまったく個人の自由だが、Facebookのような友達つながりのツールではないからこそ、そうした他者性を一定の割合(5%程度で十分である)維持しておくことは大切ではないか。
何を自分の目に入れるのかの制御が、社会全体にどういう効果を与えるのか(簡単に言えば公共性に与える影響)
『インターネットは民主主義の敵か』
『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』