見るの哲学
自分の持ち物の整理を感情を軸にして行うのは結構なことだが、公共性にそれが持ち込まれたらなかなか厄介だなとは思う。
根本的な問題は、個人の領域に対する、公共の領域の意識が欠落し、自己領域に対する判断が公共の場面にまで浸食していることだろう。
個人主義は自己責任を引き連れてくる
嫌なものは見たくない、の社会的な肯定が何をもらたすか
弱者が、それも共感を得難い弱者が、あっさりと見捨てられてしまう、というのは『矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る』でも指摘されている。でもってそれは、「無責任の体系」でもあるのだろう。決まり切った規範に、迷いなく従うことで生まれる無責任。
先のツイートで、「見捨てられる」と書いた。日本語には「見限る」という言い方もある。「見る」(≒関心を向ける、注意を払う)ということすらも破棄されてしまうということ。
『矛盾社会序説』でも「透明化された人びと」という表現が出てきた。苦渋の決断の結果再分配の対象から外れてしまった人ではなく、そもそもとして意識されなかった(問題化)されなかった人びとは、何度繰り返しても同じ結末となる。それは、Twitterのブロック、ということに近い。見えなくなる。
この問題は、フィルターバブルなどと絡めて、私たちが何を見ているのか(見させられているのか)という、「見るの哲学」としてまとめられると意義があるのではないかと思う。
見えないものは、直感すらされない。一般意志2.0においても「見えない問題」は、いつまでも放置され続けるだろう。
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