どうしようもないときは逃げる
どうしようもないときは、人は逃げることしかできないし、できるだけ逃げるしかない状況を減らしていく努力も必要だろう。それが社会を良くすることだと思う。 自己啓発や一部のライフハック的なものは「自分を変えれば」と自己の変容(あるいは自己の意識の変容)によって人生を変えることを勧めてくる。しかし、それは容易に自己責任論へと転化する。「すべてはあなたの思いなのです。苦しい? それは認識を変えられていないあなたが悪いのです」 逃げるときは逃げる。法に訴えかけるときは躊躇せずそうする。そういったことも必要だ。
自己の責任でなんとかできる小さい話ならばそれでも自己変容でもかまわないが、大きな問題には、そのような考え方だけでは苦しくなるだけだろう。
大きな社会改革である必要はない。むしろそれは現実感にとぼしく、夢見がちな人々だけに向けられるための言葉であろう。かといって、社会のことがどうなってもいいというスタンスもデタッチメントすぎる。ある行為の先に社会に関わる何かしらの変化があって欲しい。 市場においては、神の見えざる手は働くのかもしれない。しかし、現実の社会では誰かに差し向けられる私たち自身の手が必要だろう。誰かと手を繋ぐのもの、仕事をするのも、手紙を書くのも、投票するのも、そのような手なのだから。
生存戦略は、環境適応的ではあるが、環境に手を加えることも必要なのだ。資本主義の在り方を肯定し、そこでうまくやるだけでなく、その主義にメスを入れていくような行為もないと、うまくやれない人を疎外することになってしまう。