『思考の技法(ちくま学芸文庫)』の読書メモ
はしがき
現代心理学の知識が、活動中の思索家の思考プロセスを改良するのにどこまで役立つかという問題意識
本書は、思考のあまり意識的ではない部分に関しての考察をより深めたもの
思考の技法を実践する若い思索家にとっての益になることを望んでいる
第1章 心理学と思考
要点:心理学の知見はいろいろあるが、人間の思考がうまく扱えていないのではないか、という懸念が提示され、完全な機械ではなく「組み合わさった各要素が協力し、それぞれが全体の利益のために役立ちながら、それでいていくらかの主導権を保ちつづける」システムとして捉える視点が示される。
思考が必要とされる時代
現代では思考の力が不足していることが確認され、その必要性が説かれる。
「専門的な研究すべてで用いられる思考プロセス自体をどこまで改善できるか」が本書のターゲット
思考プロセスの探究
実践的な分野(技法)における経験と科学の関係
たとえば料理や冶金
料理本と化学の教科書の違い
経験的なプロセスから学ぶことで科学は発達し、結果を受けて経験的なプロセスが改善される
大きな問い
思考プロセスが何かしら恩恵を受けられる方策とはどのようなものなのか。私たちは思考の「科学的技法」の創出にどこまで近づいているのか。
科学的な知識が思考の役に立ってきた歴史は長いが、「科学的」方法によって蓄積・分類された知識に依拠したもの。
「論理でもなく、知識の蓄積でもない何か」をいかにして促すか。その探究はまだまだ浅い
思考プロセスにおいて、「科学的」な知識は有効に使えるが、思考プロセスそのものの科学的な知識はどうなのか、という挑発的な問題提起rashita.icon
機械的理解
この時代の心理学的な見方への不満
人の体の機構を「機械」のメタファーを使って捉えるときに、筋肉などの動きを中心に本能や情動がエネルギー源であり、思考はそうしたエネルギーがないと駆動しないシステムだとされる。
はたして本当にそうなのだろうか、という投げ掛け
ホルメ的理解
ホルメは駆動のこと
ホルメ的理解=ホルシズム
パーシー・ナンによる命名
ヘンリー・ヘッド博士「進化によって中枢神経が発達した目的は、その多様で矛盾しあう諸反応を統合し、当の有機体全体の繁栄につながるような一貫した結果をつくりだすことにある」
人の統合は完全ではない、「多様で矛盾し合う諸反応」が起こる
組み合わさった各要素が協力し、それぞれが全体の利益のために役立ちながら、それでいていくらかの主導権を保ちつづける
ホルシズムの視点では、有機体の各部分すべてに統合された活動へ向かう傾向があることを否定しない。しかし、生きている完全な統合ではなく、機械的で不完全な統合として理解する
協調と統合
イギリスの憲法について
古い法定を基盤にして、新しいものが上に積み上がっていっている
すべてが一つの目的のもとに完璧な調和を見せているわけではない
憲法についての教科書の多くは、こうした事実がすべて、きれいに噛み合わさった機械のごとく配置されているように書かれてきた。そこでは一つひとつの決定が議論の余地なく適当な当局者によって下され、未解決のまま残される問題はないというように。
したがって英国では、統治の技法とは、レーニンやムッソリーニといった支配者がいつも夢見ているような、自力では動かない機械を元首ひとりの意志の力で動かすといった機械的なプロセスにはならない。その代わりに、部分的に独立した有機体の活動を協調させるというデリケートな仕事になる、
オーケストラの指揮者の仕事と同じだ
支配的管理、指揮者的管理、という区分を自分なりに導入してみようと思う
個々の人間という有機体の内部で、有る程度まで活動の統合をもたらす心理的・生理学的な技法もすべてこのタイプだと著者は主張
自らの問題を把握(グリップ)しようとする思想家は、ゴルファーがクラブを自分の体の一部として協調的に統合できるのと同じような技法を持つ必要があると著者は主張
第2章 意識と意志
意識とは何か
意識を持った自己とは完全に調和した統合体である、という概念から自由になることを目指す
私の意識的な自己はすでに完全な統合体ではなく、統合へと向かおうとする不完全な、そして改善可能な傾向だ、という理解
rashita.icon改善可能という点は注目に値する
意識には明確な線引きはできず、さまざまなレベルが連続している
無意識のレベルから連続的に、まだ人間が到達していない最上位(高次)の意識が存在している
意識的な出来事はすべて、意識の下のレベルに類似物を生じさせうる
これはシミュレーションとして解釈できるかもしれない
その経験が十分に意識的なものであれば、それを知覚、感覚、衝動、思考などと呼ぶ。
意識的なものとそうでないものの差異、メタ認知
視覚関連の用語で意識の性質の違いを捉える
焦点視と周辺視→今だと周辺視野と中心視野
意志とは何か
意志という作業概念について
作業概念という言い方は面白い。
意識が連続的なものだとして、意志も同じような捉え方ができる。
しかし、意志的なものが弱まってきたときにそれを「意志」と呼んでいいのかという問題はある
衝動と意志の区別
感覚は意志ではコントロールできない。注意の心的プロセスは可能。
では高次の思考はどうか?
「より高次の思考を組み立て、ぼんやりとした普段にはない連想によって新しく有益なアイデアや決断に至るという心的プロセス」は、意志をじかに行使してもごく不完全にしかコントロールできない
もしそれがコントロールできないなら思考の技法はない
凶器とインスピレーションを指すギリシャ語の語源は同じ
manike, mantike
プラトンは『国家』で詩を禁じたが、「神々の賛歌と善き人間たちの頌徳」(しょうとく)
「プラトン『国家』篇X巻におけるミメーシス詩の拒絶」 (三上章 著)
身体と精神
身体と精神を区分するのは難しい
ワトソン「人間は全身のあらゆる部分で思考する」
身体と精神は、ひとつの生における二つの側面、という捉え方
フランス現代思想との時間的な距離感を確認する
本書『The Art of Thought』は1926年
ジャック・デリダ1930年7月15日 - 2004年10月9日
ノーバート・ウィーナー 『サイバネティックス』1948
構造主義:1960年代
ポスト構造主義:1960年後半から1970年後半頃
構造主義:1960年代
第3章 技法に先立つ思考
思考を観察できるか
思考の技法とは、既存の形の人間行動の傾向を意識的な努力によって改善しようとする試み
rashita.iconこれは技法全般に適用できる定義(性質の技術)であろう
ランニングの技法や演劇の技法などと同じ
技法のルールの土台には、その技法によって修正しようとする行動について得られる正確な知識がなければならない
観察して知識を得る
思考の観察は困難
思考プロセスにおいて最も重要な段階の一部は、通常は無意識か、半意識的に行われる
そうしたものは通常観察できないし(観察とは意識的な行動なわけだから)、観察できたとしても「自然な」ものとは言えない
最も意識的でない思考の内容についても、主に過去の経験から来たもので、本人の知的習慣や情動的習慣から強く影響を受けている(本人の来歴から独立したものではない、ということだろう)
意識のあらゆるレベルにある思考は、言語とそこに伴う習得された無数の連想を活用している
思考の技法を学ぼうとするものは、技法の習得を始めようとするポイントを意識的に選ぶ必要がある
経験は人それぞれだが思考には共通点がある
独創的な思考の基本要素は、ある心的出来事が上位脳の「電話交換室」においてまた別の心的出来事を呼び起こすプロセス
技法が改善しようとするのは、その連想=連関のプロセス
連想プロセスを観察する二つの内省的な手法
プロセスが生じたあとで、観察者がその連なりを記憶する
生じているあいだに観察するか
前者の方法が多かった
アリストテレスにおける連想プロセスの扱い
簡単に挙げておくに留める
経験がお互いを呼び起こし合うのは、それらが時間的に連続しているから、お互いに似通った経験であるから、場所的に近いから、数学の証明の各段階のように論理的につながっているからという理由をアリストテレスは挙げている
コンテキストの共有、心理的な近さがかかわっている
記憶による観察
ホッブズの『リヴァイアサン』を例に「記憶による観察」についての話が進む
ある心的な出来事が別の出来事によって呼び起こされることはよいとして、「あてどのない」思考にあって、それが選ばれる理由がなぜなのかはわからない
→「制御された」思考
以下は『リヴァイアサン』から引かれた文として提示されている
「私たちの欲望や恐怖感をかき立てる事物の作用は強烈で、しかも途切れることがない。(中略)欲望に駆られると、目指すものを達成するのに役立った(ことが分かっている)類似の手段のことが、頭に思い浮かぶ。それがきっかけになって今度は、そうした手段を確保するのに必要な、別の手段のことが思い浮かぶ。このような連鎖がずっと続き、ついには、おのれの力の及ぶ範囲を限界として、何らかの「最初の一手」に行き着く。
同時的な観察
連想が発生しているそのときに観察する。過度の単純化は避けやすくなるが、非常に難しい。
J.ヴァーレンドンク著『白昼夢の心理学』が例としてよい
精神分析で生じる連想は「不自然」である
心的な試行錯誤が行われている
「カチッ」という言い方(ぴたりと嵌まるという感覚だろう)
ヴァーレンドンクの解釈
意識の強弱と合理性の強弱は関係する
意識のレベルがぐっと下がると、文明的な人間が教育や経験から得た批判能力も一緒に下がるということ、ヴァーレンドンクは知っていた。
あとからこの能力は「合理性」という言葉で言い換えられている
チェス・プレイヤーのアレヒンについて『オブザーバー』(1925年2月28日)のチェス記者
「彼はチェスを駒を頭の中で、映像としてではなく、力の記号として見ている。それはむしろ言葉で表せるものに近い
二つの違い
完全に目覚めているときの半意識的な思考には、中枢神経が自然な眠りや催眠状態に入ろうとするときに起こる半意識的な思考と似た点が多いが、違いも存在する。その違いは、より高度で難しい形の知的創造においてきわめて重要なものとなる。
ポアンカレの解釈
アンリ・ポアンカレは『科学と方法』の「数学的方法」で、自身の思考プロセスを紹介している
彼は、自分自身の数学的発見において、そこにかかわる感受性は美的本能から生じるものとしていた
著者はポアンカレの見方はあまりに単純化した構図だと捉えているが、得るものもあると述べる
それでも学生は彼らの本を読んだあとに、自分自身の内省の助けを借りて、こうした「自然な」思考プロセス──経験や習慣の影響を大きく受けるとはいえ、思考しているその時点では、思考の技法のなんらかのルールに自ずと縛られるということはない──の適切な作業概念をつくることが可能になる。
学生は自分の頭の中で、連関する観念の自動的な連鎖を、どこかで覚えのあるポジティブな結末やネガティブな結末を、破綻していてすぐに忘れ去られるものを観察できるだろう。こうした連鎖の一部は、「本能」と「理性」との関係の、「機械論的」理解を生じさせる、あの原始的なタイプに属しているのかもしれない。
第4章 コントロールの諸段階
思考プロセスの四段階
この章では思考プロセスのどこに介入するのかが検討される
ヘルムホルツ、ポアンカレの話を引きながら、4つの段階が設定される
準備、培養、発現、検証
複数のプロセスが重なり合いながら進んで行く
重要な思考は、音楽の作曲に似ている。そうした思考における成功とは、所定の問題の解答などよりも美しく真実だと感じられるものが生み出されることにある。
所定の解答に向かう思考と、感受性に訴えかけるものを作り出す思考
〈準備〉段階と〈検証〉段階
プロセスに分かれていることを受け入れると、どこにどのように意識的な努力(あるいはそれによって得られる習慣)を集中させるのかが決められる
準備は、知的教育全体(勉強)のプロセスが含まれる。教育を得た人間が行っていること全般ということ。 専心したり、しばらく頭を休めたりできるようになる
観察と記録に勉めることで、多くの事実および言葉の記憶を習得し、それが最終的な連想に幅の広さをもたらす
思考の体系を構成する多くの連想の習慣的道筋も得られ、それが思考プロセスの中にセットになって現れてくる
準備の段階で、自発的もしくは習慣的に、ある問題の連続する要素にどういった順序で注意を向けるかという規則に従うことを学び、実行できる。
ホッブズ、制御された思考=探し求めること
くまなく探すことをすることで、匂いをかぐというプロセスの成功率を上げることができる
予備的な制御の規則に含まれるもの
論理の技法のすべて
実験科学の論理となる数学的形式
天文学や社会学といった観察的科学の基礎となる現在の現象や記録された現象を体系的・継続的に検証する手法
「問題-姿勢」(仕事 アウフガーベ)の内的な選択
なんらかの問題があるとき、それを明確な疑問として設定しなければ、私たちの精神が明確な答えを出せる見込みは低くなる。
証明または反証するべき問題の明確な理解を定められれば、新たな証拠の一部や新たな観念の連関の重要性に気づく可能性は高まる、
自然科学の分野で成功した思索家が語った言葉
自分の頭が混乱していると感じたときにその原因を探り、それまではともに事実として受け入れていた二つの命題の含意のうちひとつが事実でないと確信できるまで追求し続ける習慣
のおかげで自分は成功できた
ベーコン「心理は混乱よりも、錯誤からのほうがはるかに早く訪れる」
ハクスリー「正しいか正しくないかと騒ぎたて、あちらへこちらへ揺れ動いていても、何も得るところはない、だが絶対的に、徹頭徹尾まちがっていれば、いずれ事実に真っ向からぶつかるという願ってもない幸運に恵まれるはずだ。そうすればまた良い方向に向かえる」
交互に提案と批判が繰り返される対話の形の絶え間ない努力における産物
第一の段階の準備と第四の段階の検証はよく似通っている
〈培養〉段階
意識的に思考しないそのときに無意識的な心的出来事が生じる
自発的に控える二つのパターン
他の問題に注力する
完全に休む
身体を使った運動も良い
散歩と知的生産
思索家にとって、ただ勤勉であることは好ましくないかもしれない
さまざまなタイプの活動を交互に行ったほうがよいのかもしれない
〈培養〉を妨げるもの
勤勉かつ受動的な読書の習慣が培養の段階でもっとも危険
カーライルがアンソニー・トロロープに語った言葉、旅行中は「本を読むのではなく、静かに座っておのれの思考を整理すべきだ」
〈発現〉段階
このプロセスにどこまで影響を及ぼせるか。「ひらめき」に限定するならば関与は不可能
意識の辺縁は、それだけをはっきり捉えるのは難しい
ひらめきの〈予兆〉
四つの「段階」ではないもの。
ひらめきの直前にある意識→予兆
そうした予兆が十分に長いものであれば意識を向けることはできるが、はたしてそれをしたとしてプロセスが改善されるかは簡単にはいえない。ある行為が熟達して成されているときにはむしろ個々の動作には注意が向いていないだろうから。
フランク・マクリー『学習の仕方』(How to study and Teaching how to study)
ジェスチャーの話 p.92
また天性の弁士が喋りながらジェスチャーをうまく活用できるのは、自分の手振りを意識しているときよりも、聴衆を意識しているときだという。
何に注意を向けるかで、パフォーマンスが変わってくる
習得するプロセスは意識的
〈予兆〉を妨げるもの
忘れるか、割り込みによって連想が妨げられる
ソクラテスの母親は助産婦
「新しいウサギを走り出させないようにする」
注意を向けること自体が、連想を妨げかねない
言葉に置き換えることの危うさ
p.99 しかし現代の思索家にとって、連想が損なわれる危険の最たるものは、その結論を──おそらくその連想が完了する前に──言葉に置き換えようとするプロセスにおいて起こる。
ヘンリー・ハズリット「一科学としての思考」
ある種の思考はじつに逃げ足が速く、魚がほんの小さなさざなみも怖がるように、明確な言葉にしようとすると怯えて逃げてしまう。こうした思考がまだ育ちきっていないうちは、口に出すときにも細心の注意が欠かせない
とは言え、思索家は言葉にすることを避けられない
p.100 しかし現代のプロの思索家は、思考プロセスにおいて遅かれ早かれ、あらゆるリスクを負っても表現をするために意識的な努力を行わなくてはならない。
p.100 しかし現代の思索家は好むと好まざるとにかかわらず、自分の思考を他者が利用できるように永続化するという務めを概ね受け入れている。
P101. また創造的な芸術家はしばしば、思考を表現するにあたって、あの個性と呼ばれる調整の不完全な総体が促してくるものを抑えつけないように意識して技巧を用いることを学んだときに初めて成熟に達する。
第5章 思考と情動
〈予兆〉を色づけるもの
内発的に起こる思考プロセスのコントロールにおいてもっとも難しい問題は、〈予兆〉は感情(情動、感覚などを包括する言葉)で色付けられていることから生じる
感情を保ち続ける上で、それを引き起こした知覚に注意を向けるか、感情自体に注意を向けるかという実験
情動と言葉の選択
私たちが思考にどういった言語を用いるかを選べる場合、その選択が難しくなる理由の大部分は、この情動的な要素にある。あるひとつの言語またはそのニュアンスは、私たちの問題をより正確に言葉にでき、〈検証〉をより効果的なものにできるかもしれない。しかしそれとはまた別の言語が、私たちにとっての情動的な連関を持っていて、それが新しく生き生きとした思考をより多くもたらすということもありうる。
ユーモアという情動
しかし大人になってからのユーモアの感覚に伴う解放感は、思考がある種の「検閲」を、私たちも往々にして気づかずにいた習慣や道徳や自己尊重の障壁を貫いて迸り出るという事実と密接につながっている。
実際のところ、ユーモアに彩られたあらゆる〈予兆〉を敏感に察せることは、作家であれ組織者であれ教師であれ、人間を相手にしなければならない思索家にとってはきわめて貴重な技術だ。人間はもともと半社交的な種で、忠実さや謹厳さもはや本来の有益さを失ったときにも、そうした価値に従おうとしがちである。この性質からも生まれる人間の本能や習慣にも、彼ら思索家たちは向き合わなくてはならない。
私たちは概してユーモアに必要なのは、生まれ持った能力と、自由に語り自由に考える友人グループの組み合わせであると思いがちだ。しかしいかなるユーモリストも自らのユーモアの感覚を育むには、またそれ以上に中年を過ぎてもその感覚を持ち続けるには、自分の中でちょっとした勇敢な行為を長く続けていくことが必要になる。W・K・クリフォード氏の言う、「くだらないことを囁くごく小さな声」が自分の中にあるのに気づくだけでなく、やはり自分の中でそれを黙らせようとする力に逆らって口に出すように言い聞かせなければならない。やってくるすべての〈予兆〉を、自らの勇気を試すようにユーモアで彩って扱う習慣を持たなくてはならないのだ。
だが、思考における他のあらゆる要素と同様に、ユーモアの感覚を効果的に用いるためには、機械的に画一的なルールに従うのではなく、さまざまな技法を繊細に操ることが求められる。
情動の役割
情動に色づけられた〈予兆〉とは、私たちが情動に後押しされずに知的に導かれた結論に何かしらの「価値」を付与しているというだけでなく、知的で情動的な存在である私たちが、部分的にしか意識していなかったプロセスを通じ全体としてその結論に至ったということ、また意識的な〈検証〉の最終段階がこれから始まるかもしれないということを示す最初の徴候でもあるのではないか。
このように〈予兆〉が力や深さを持つのは、それが生命の最も根本的なプロセスのひとつと密接に関わっているためではないだろうか。
したがって〈予兆〉とは、私たちがこれから新しい大きな類似を認識しようとすることであり、プラトンならこう言うだろうが、個々の現象の混乱した類似がその無様なコピーとして現れる永遠のパターンを見ようとすることだ。
理性と想像力
想像力は、予兆と発現。理性は準備と継承
想像力は理性と対比されてきた。古典主義者とロマン主義者の議論においては特に。
現代では、連関する思考のさまざまな段階や目的を明示するために区別される
詩の育成がもっとも望まれる時代は、過度の利己的ないし打算的原理のため、もっぱら外的生活の素材が、人間本生の内的法則に吸収できぬまで過度に蓄積されている時代である 『詩の擁護』p.136
パーシー・ビッシュ・シェリー
『平和の経済的帰結』ケインズ
第6章 思考と習慣
習慣という刺激
直接的な行動に焦点を当てるだけでなく、習慣に焦点を当てる手もある。
ここでいう習慣とはのちのちまで影響を与えるもの
より詳しい記述
生物の活動はすべて、その生物および環境に直接的な影響を与えるほか、その将来の行動パターンにものちのち永続的な影響を及ぼす。たとえば私たちの準備培養発現検証の諸段階における心的活動はすべて、実りある思考という直接的な産物を生むのに役立つだけでなく、生物である私たちが将来にもそうした活動を再現できるようにし、また再現しようとする傾向をつくりだしもする。
もっとも単純な例
知的作業を行う時間を決めて、毎回その時間に開始する
「ウォームアップ」と呼ばれる
こうした観点から、プロの知的生産者には自らの作業時の意識として、ここでは思考の心理学と区別するために思考の整理学と呼んでもいいが、知っておけば非常に役立つことがある。たとえば、脳の活動が「ウォームアップ」されるプロセスを常に意識して取り入れている人間は、そのプロセスが普段よりゆるやかな日があったとしても、「そわそわ」したり怒ったりはしないだろう。
時間の習慣
さらに複雑な習慣
さらに複雑な習慣としては、前の日に作業をやめた時点で行っていた思考の連鎖の記録を、毎日何かしらの反復的な筋肉の運動で刺激して思い出させる、というものもある。
前日に書いたものを読み返すところから仕事を始める知的生産者
再読はまた、まだ終わっていない脳活動と、新たな思考が訪れようとしていることを示す予兆をしばしばもたらす。この予兆が現れるときには、私が培養と呼ぶ心的努力による介入が内発的に少し引き延ばされるような習慣をつけるべきだろう。
しかし習慣の奴隷にならないようにも気をつけるべき
6日のうち5日は前日の思考を発展させるのがよい。しかし残りの1日は新しく、より深いレベルで心的活動が始まるようにした方がいい
行政職についた思索家
行政職の業務では、こうした休憩を日常的に入れるのが望ましいことが非常に多い。行政職に就いた思索家は、お互いに大きくかけ離れた多くの問題を連続して扱わなくてはならない。昨日書いたメモを読み返すことは、何か今日中に考え抜く必要のある問題に思い当たるのを妨げるかもしれない。また行政職にある人物はとりわけ、いささか情動的な固定観念をつくりだす傾向があり、それが半意識的に、思考の筋道が毎日の業務から逸れていくのを「阻止する」かもしれない。
辺縁の思考の記録
メモについての話。重要な話が多い。
知識労働者は、厳密な日課によって生活の知的な部分を管理する必要があるが、仮にそうしたとしても脳内の活動が統制下に置けるわけではなく、さまざまなことについての予兆が起きている。
なので、「まだ焦点の合っていない自分の意識の辺縁を見つめ、そこに現れる有意義な心的出来事を捉える習慣をつけるべき。辺縁の思考を観察し、記録する習慣をつけるべき。
と、同時に正面にある作業対象から注意をそらしてはいけない。
はじめはざっくりした形で書き留め、将来的に検証と精査を行えるようにしておく
『一科学としての思考』(H・ハズリット)「ふっと何気ないところで浮かんでくるアイデアを書きめておく」
思考の連鎖が起きているときには、辺縁の思考が中心的な思考の連鎖より重要だとわかることもある。
辺縁の思考が焦点を結ぶ思考へと発展してくるときには、作業を一時的に中断するのが望ましいかもしれない
著者の図書館での行動
ある主題に関する本を調べながら、有意味な辺縁の思考を手元のノートに「角括弧」(ブラケットのことだと思うが本文で「」で括られていて、どちらか判別はつかない)つきで書き留める習慣をつけようとしている
そうした思考は言葉にして書き留めても注意の中心的な流れを邪魔することはまずない
言葉を省くために、論理的な記号を使った速記のようにメモすることもあり、他の人が読んでもまず理解できない
このときの辺縁の思考には、当人がそのとき書いている文章との明確なつながりはない。だから、一週間に一度くらい、その集の作業で書いたものをざっと見なおし、角括弧に囲まれた書き込みを集めて並べなおすのがよい
見返すとさらなる発展が生まれるように思えることも多い
知的生産の生活を行っている人は、かなりの数のフォルダ(封筒)をとっておくようにした方がいい
フォルダの表側には、自分の頭にたびたび浮かび上がってくるが、すぐに文章や講義のテーマにしたり、実行に移したりしようとは思えないような主題の名前を書いておく。
その一方、初めはばらばらでつながりがないように思えた思考が、次第に膨らんで互いに接近していき、新たな予期せぬつながりをつくることも多々あることがわかるだろう。
なので、「再分類」と記した大きなフォルダをつくり、そこに「意味がありそうに感じられるが、すでに作った区分のどれにも属さないような思考」をすべて入れておき、ときどき注意深く検討し直すようにする。 新しいアイデアはこうした塊の中にこそ見つかる可能性が最も高い
そこに記された思考は少なくとも、思索家自身という部分的に統合された有機体が有意味だと感じるという共通点により、互いにつながりが生まれるだろう。
思索家は辺縁の思考の記録を、どこかの時間帯に限定しない方がいい
ホップズは常に小さなメモ帳を持ち歩いていた。
現代人はいろいろ思いつくので、記録がないと二度とそれを思い出さないことも稀ではない
朝新聞を読む弊害
たったいま意識の扉を虚しくノックしている弱々しい予兆を無視しながら、急いで朝食をとったあとに新聞の見出しを読んだり、耳障りな騒音だらけのラッシュアワーの列車に乗ったり、夜にせわしない喜歌劇や映画を見たりしていたら、これ以上ない悪い結果になる。
新聞を読むのは大半の人たちには、ほどほどに楽しみながら、無限に浮かんでくる断片的なアイデアをすっかり忘れていくおちう悪い習慣を身につける訓練を一生続けるようなものだ。 大量の記事に印をつけ、それを切り抜いてファイルするなんてことをしていたらぜんぜん時間が足りなくなる
一つの理想的なスタイルについて
私たちが自分の精神を訓練し、新聞を読んでいるあいだに浮かんでくるアイデアを撥ねつけるときも、本当に役立ちそうなごくわずかなアイデアをとどめておくときも、等しく厳密でいられるようにする。そうした切り抜きひとつひとつに印をつけて、読んでいるときに重要に思えた点が正確にひと目でわかるようにする。切り抜きはどれも同種のものとはなるべく早いうちに区分して、そこそこまともそうなノートや抜き書きの束の中に入れておく。そしてあとでざっと見返してみて、もはや重要だと思えなければ、すべて容赦なく処分するのだ。
著作の見返し
文筆の生産があまり多くない人物が三、四年ごとに、自分が出版した本屋たまに書いた原稿をざっと読み返して、その中に当時は未発達のまま放っておいたものの、いまなら追求できそうな思考の萌芽が見て取れるかどうかを確かめるのは有益かもしれない。
アイデアを膨らませる
思索家は自ら蓄積した読書ノート、記録した辺縁の思考、過去に書いたものなどの題材を扱う場合、特別な習慣を身につけようと努めるべき
その習慣は、題材の性質、作業の特性、思索家本人の力量によって変わる
たいした才覚無き人間が、なんらかの社会科学の問題を探究するならば、手元にあるばらばらな記録を何度も再考し、並べ直すしかない。何百ものを考えをつなげてひとつの一貫した論旨にまとめようとするなら、ひとつの章を書くのに十以上のシナリオを作らなくてはならないかもしれない。
チャールズ・ディケンズは43歳になってから初めてアイデアや事実をノートにつけるようになった
1812年2月7日生まれのディケンズは、43歳は1854年ほど
ボズのスケッチ集(英: Sketches by Boz、1836年)
ピクウィック・クラブ(英: The Pickwick Papers、1836年 - 1837年)
オリヴァー・トゥイスト(英: Oliver Twist、1837年 - 1839年)
ニコラス・ニクルビー(英: Nicholas Nickleby、1838年 - 1839年)
骨董屋(英: The Old Curiosity Shop、1840年 - 1841年)
バーナビー・ラッジ(英: Barnaby Rudge、1841年)
マーティン・チャズルウィット(英: Martin Chuzzlewit、1843年 - 1844年)
クリスマス・キャロル(英: A Christmas Carol、1843年)
ドンビー父子(英: Dombey and Son、1846年 - 1848年)
デイヴィッド・コパフィールド(英: David Copperfield、1849年 - 1850年)
荒涼館(英: Bleak House、1852年 - 1853年)
---ここら辺が境界線---
ハード・タイムズ(英: Hard Times、1854年)
リトル・ドリット(英: Little Dorrit、1855年 - 1857年)
二都物語(英: A Tale of Two Cities、1859年)
大いなる遺産(英: Great Expectations、1860年 - 1861年)
講義をしている教師は、講義が助けになる
聴衆がいること、そこから受ける情動的刺激、作家とはまたいくぶんちがった角度から主題に取り組むこと
ただし講義をただ原稿を読み上げるだけのものにしないこと。
講義のあいだにうかんでくる新しく有意味なアイデアに気を配ること
一見すると毎日教えることで思考の成果を増やすことよりも、日々新聞などに接するほうが良い手段であると思えるかもしれないが、経験ではそうではない。
作家は、自分の職業に潜む知的な危険をよく心得ていて、その危険を避けるために、毎日ある程度の時間をより継続的な作業に費やすといったことをしている
日刊新聞の記者は、アイデアを寝かせておくわけにはいかない。入ってきた情報=刺激に反応してすぐに文章を起こせることが必要。「最初に」浮かんだことを書く。「二つ目」や「三つ目」の思考ではない
習慣の主人たれ
息苦しさには注意を払う
だが、最後にあらためて、思索家が皆いつも肝に銘じておかなければならないことを言っておきたい。もし自分が機械ではなく生命を持った有機体であることを活かそうとするなら、習慣の奴隷ではなく、主人であらねばならないということだ。自ら入念に定めた時間と手法と題材のせいで「息苦しく」なっているという徴候には留意しなくてはならない。もしわずかでもその兆しがあれば、できるだけ早く完全に、また物理的にも精神的にも「屋外」へ出ることだ。
普段とは違うことを大胆にやってみる
自らを習慣づけることと、たまにその習慣をやぶることの両方が大切
勤勉さ
すでに論じたように、勤勉さなくして偉大な知的事業は成しえないが、単なる勤勉は創造の妨げにもなりうる。
第7章 努力とエネルギー
思考と努力
思考の技法のさらなる発展を妨げるのは、私たちが「エネルギー」や「努力」や「解放」といった言葉を使うときに、その背後にある事実を明確に把握していないことから生じる。
努力からくる緊張も、なんら意志の力を意識することもないまま、より継続的な作業が行われたときに、しばしば最も実りのある成功が訪れるのだ。
習慣とエネルギー
心的エネルギーを喪失させる習慣と、増大させる習慣
情動の機能
心的エネルギーを効果的に刺激できるかどうかは、思考プロセスと、そうした「情動」や「本能」や「情熱」との適切な関係をつくることにかかっている。
情動がさらに思考において効果的な要素となるのは、最初の興奮が収まったときか、情動がまとまって感情になったとき
実のところ、情熱という意識の根底にある生理学的出来事は、通常の生活においても思考の効率性を左右する有機体全体の調和のとれたエネルギーを阻害するものだ。
思索家は自分の仕事を、それに取り組んでいるときの自分の内的な調和の程度ではなく、その最も重要な条件が自分自身の外部にある世界で新しい思考を首尾よくつくりだせたかで判断すべきだ
行動とは何か
休憩から得る力よりも、行動から得る力
ジョン・デューイ「あらゆる人びとが最初のうちは、また大多数の人々は一生涯、行動の秩序づけを通じて思考の秩序づけを達成する」
How We Think
仕事の有効性を最終的に決めるのは、決して自信に満ちた当人の統合された新たな自我によってではなく、漠然と心を騒がせる〈予兆〉によってであり、それは意志の困難な努力によってしか表面に浮かび上がらせることはできない。
ウィリアム・ジャイムズ『心理学原理』
「あなたの行うすべての決心に基づいて、また身につけようと願っている習慣の方向にあなたを情緒的に駆り立てるすべての力に基づいて、正に最初に動作できる機会を捉えなさい」
「決心や理想が脳に新しい「型」を作るのは、決心がなされるときではなく、決心が運動的効果を生み出す瞬間である」
完全に自発的な行動でも、思考と情動のエネルギーを増大させる効果には差がある。
自分がしていることを知っている、ということ。アリストテレス
大声で演説をする、祈りを唱える、僧院の庭を掘るというのは、私たちの生理的・心理的欲求がいくらか満たされる方法かもしれない。だが思索家にとっては──本を書き終えるか、自分の意見を形にするか、ときには職場を辞めるかしたときのような──心的エネルギーを引き出して強める手段にはならない。
二つのエネルギー
物理学が言うエネルギーと心的エネルギーについて
第8章 思考のタイプ
人間集団による類型化
ハーバード・スペンサー「総合哲学」
集団の思考の傾向を見る
あくまで傾向であって、全体ではないし、また他の集団に見られないわけでもない点には注意が必要。
英国的思考とフランス的思考
政治的思考における相違
アメリカの「開拓者精神」
ウィリアム・ジェイムズとW・H・ペイジ
プラグマティズムと誤謬主義
開拓者精神→福音派と農民の開拓者の精神が合わさったもの
アメリカのキーワードは達成、欧州は達成
開拓者の伝統が常にはらむ危機とは、「達成」ではない「楽しみ」へ向かおうとする衝動すべてを「誘惑」に等しいものとみなすことだ。
ファンダメンタリズム
アメリカの創造的エネルギー
米国の開拓者タイプがハイブロウに向ける軽蔑を正当化する理由のひとつが、創造的なタイプを煽る、あるいは自らの欺く模倣者の存在だ。私が米国人から聞いたところでは、米国には書籍による大規模な教育システムがあるせいで、知的創造という理想に惹かれる若い男女が他のどの国にもまして多く居いる。しかし彼らは必要な天与の力を持たず、必要なエネルギーを刺激して強度を維持する秘訣も会得していない。
第9章 意識の遊離
催眠状態と思考
軽度の遊離は、自分の思考や視野や属する流派の習慣から切り離されたいと願う芸術家には有効かもしれないが、芸術制作の最高の形は、その制約のさなかに高次のものも低次のものも含めた全神経系の鮮烈な活動と、意識的な意志のあいだに調和がとれたときに起こるように思う。
確信の感覚
しかし私は、確信の感覚は視覚と同じように決して過つことのない指針ではなく、アリストテレスの言う「正しいとき、正しい方法で」形づくられたときにのみ、得られるかぎりで最高の指針になると言ったほうがいいと思う。
意志によるコントロール
自己暗示と瞑想
第10章 教育の技法
現代のプラトンたち
知的な達成に向けて、大人たちは子どもにどんな手助けができるのか
プラトンのように自然、旅、自由な遊び時間、師や仲間との語り合いや創作を現代で望むのは相当に難しい
現代の思索家は、現在の人間社会に秩序や混乱をもたらす力のコントロールに貢献しようとするなら、生涯を通じて図書館いっぱいの本やピラミッド並みの新聞の山を読み、自分が過去から百万年続く時間の中の、天文学的距離にわたって広がる空間の中野一点で、生きていることを科学から学ばなくてはならない。外国の専門家と知的に協力して、アリストテレスに記憶できる量の千倍もの正確な知識を処理しなければならず、アリストテレスに想像できるより千倍も正確な人工的な観察手段を活用しなくてはならない。
子どもまかせの弊害
子どもに教育するならば、それを教えるほうもその技能を持っておく必要がある
子どもの衝動だけに任せると期待通りにはいかない
それぞれのレベルに合わせた適切な訓練が必要
知的成長とは、ある種の知的機能を実行する力がいきなり現れるのではなく、その機能が継続的に実行される時間が徐々に延びていくという形で現れてくるのだ。
最初にやってくる疲労と消耗の違い
心的エネルギーを刺激する
p.247
また思索家見習いは、「性に合わない」せいで苦痛になるような努力と、努力することがいつのまにか形を変えて生じる幸運なエネルギーとの区別をつけられるようにならなくてはならない。
余暇の必要性
新たな試み
学生に小さなグループを作らせて、自分たちでプロジェクトを進めさせるという試みについて。現代ならアクティブラーニングと呼ばれているものに近い。うまくいく子どももいるだろうが、適切な方法を見つけ出せない子どももいる。有益な教師の助言で知的な活動が活性化する場合もあるが、それが広く広がっていくことは期待できない。
心理学的視点の導入
学び方への関心を持つことが読みの速さや理解の度合いを百八十パーセント高める、といった報告がある
方法への興味が、実践の結果に影響を与える。言い換えれば、そこでどんなプロセスが起きているのかを見つめる視点は、行為そのものに影響する
ノウハウの話はどうでもいいわけではない、ということです。
ある心理学的な内容の講義を受けた人の感想にある「彼の話を聞くまで、自分に精神があることにすら気づいていたものは少なかった」。
自分の心的活動へのメタ認知が欠如していた
第11章 公的教育
義務教育の役割
高知能の子どもたちへの有効手段
中等教育の義務化
第12章 教えと実践
教員登録制度の弊害
p.290
要するに、現在の教員登録審議会の主張を支持する人たちは、人間が精神を使う訓練をするという問題の複雑さが往々にして見えていないのだと思う。
p.291.
こうした過度の単純化が起こる理由の一部には、技法を教えることと実践することの違い、いわば組合の言う「管轄問題」を教師がどうしても無視しがちだという点がある。
思考の技法の伝達と実践
p.294
まず最初に、一般教育の教師たちは、とくに十二歳を過ぎた高知能の生徒たちを教える場合、もし可能ならば自らも知的生産の経験があり、その経験をやめてしまってから教師になったのではないこと、また大学の学位などの「資格」を取得していることが望ましい。
p.295
教師は皆、自分の経験を生徒に伝えられるだけの、教えるスキルと機転を持つ必要がある。
p.269
美術を学ぶ生徒は、教師としては二級でも画家としては一流の人間の工房にいるほうが、一級の教師だが二級の画家である人物の工房にいるよりも得るものは大きい。
柔軟な教育制度
学校の役割
p.305
そして学校は、生徒たちにとっても、ぽつんと孤立した存在ではない。創造的な思索家の人生には、機会や生得的な知的能力だけでなく、金稼ぎではない何かを持続的に求める意欲が必要だ。したがって、そうした学校に初めて情動的、あるいは知的伝統をつくりだそうとする人たちは、自ら働きかけて学校での取り組みと外の世界での仕事に意識的なつながりを生み出そうとするのか、それともイングランドの偉大な「パブリックスクール」や米国の学校を拠って立つべきモデルとして、協同という半意識的な習慣が育っていくことに頼るのかを決めなくてはならないだろう。
p.308
もちろん、人間の創造的思考を訓練するにあたっては、どれほど注意深く精選しようと、絶対に確実な方法は存在しない
実験学校の可能性と限界
高い知能の子どもにより多くの予算を使うことをどう考えるか
p.310
(前略)社会的公正を実現するには算術的不平等が必要になることを明言しなくてはならない。
p.315
人はまだ、がんの予防や小麦の生育は歓迎しても、偏りのない思考の技法が改良されることを歓迎する準備は整っていない。