「ハンマーがない工具箱なんて工具箱失格だあああ」と思っているとつらい
以下より。
たいへんよくわかる。
失格という感覚が、ここでは肝なのだろう。
その感覚を解体していくしかない。
「ハンマーがない工具箱でも合格なんです」という認知のすり替えではなく、「そもそも失格とか合格とかって何?」という哲学的な問いが必要。
言い換えれば、自分がどんな思いや価値観にとらわれているのかをメタ的に自覚していくしかない。
なぜならば、「ハンマーがない工具箱でも合格」だとしても、結局別のものがなければ失格になってしまうし、揚げ句の果てに自分の工具箱に入っているものが入っていない工具箱を見下したり、あるいは自分よりたくさんの工具が入っている工具箱を崇拝してしまう可能性が残るから。
必要なのは、その「失格」という感覚の解体であるから、それをもたらしている審級とそれを支える価値観にリーチし、必要に応じてそれを解体していくこと。
解体し過ぎると、虚無主義になるので注意が必要
デカルト的スタート地点、が必要
いろいろな考え
ハンマーがなくても叩ければいい、と考える(代替、工夫、用をなせばよい、という捉え方)
叩く道具がなくても構わない、と考える(工具箱の定義を塗り替える)
そもそも、自分は工具箱ではない(人間は道具ではない、という発想)
いろいろあるし、別になんでもいい。
自分を捕らえている(自分が囚われている)価値観に、自らで迫ることが多分大切
上を書いていて思ったが、まず「それってなんやねん?」という前提への懐疑で解体が始まるのだが(それによって、当初の囚われからは脱出できるが)、そのベクトルしかないと行き着く先は虚無である。よって、どこかでベクトルを変更しなければならない。
最初からちょうど良い按配に着地するというのは、たぶん難しく、最初は破壊方向に進んでいって、結構危ういラインまでいき、そこでギアチェンジというかエンジンの変更というかハンドルの切り返しというか、そういうものがあって、解体ではなく肯定(構築)がスタートする。
そのとき、二つの(あるいはそれ以上の)エンジンが(あるいはベクトル)が内包された認知(価値観、世界観)になる。