Scrapboxでは情報が主役となる
一方で、Scrapboxにおける主役は、「情報」そのものです。
誰がページを作ったのか、誰が追記したかということは、たいした重みづけを持たされていません。人はおまけ(せいぜいメタ情報)に過ぎないのです。
まず記述すべき情報があり、その情報の回りに、さまざまな別の情報がつながっていく、という形になっているので、視点の中心は常に「情報」だと言えます。
共同編集は発表の場ではなく、「みんなで料理しよう」の場だよね
まさにそう。
自己表現の場だと捉えると、それが侵食されるのは当然嫌だろう。
プロジェクトごとに役割、機能が異なるという認識が必要
メディアの役割が「自己表現」しかないと認識していると、辛いことになる。
WIkipediaを編集していると考えればいい。
そういうメタファーすら成立しない精神状態はもちろんあるだろうが
共同編集の成果物の著作権って誰が保持するんだろうか
全員?
別種の有用な問題提起だ。
Scrapboxにおける未解決問題ではなく、むしろScrapboxを使っていくうちにこういう怖さを克服することが体験としてあるだろう。
おそるおそる掲示板に書き込んで、そこでいろいろありながらも慣れていく、という感じ。
理屈で「怖さ」を消すことはできない。
認知療法的な、行動の徐々の積み重ねが必要
先回りして「怖くなくする」という方策はあまりよくないと思う。
結局他の場で、他人を交えて自分の意見を出せない状況には変わらないわけだから
いつまでも自分の庭弁慶ではいられない
事実と意見をわける
たとえば、誰かのアイコンがついている行は、おいそれと編集しないというのは一つのスタンスとしてはあるだろう。
逆に、アイコンなしで書いた行は、「はい、どうぞ」と共同墓地、じゃないな共同牧草地に提出するつもりであればいい。
これは自由にしてもらっていいですよ、と手放す感覚。
上のことを考えると、たとえば日付やアイコンがついていると、それがある種の「重し」「錨」のように機能して、おいそれと編集し難くなる。
すべての行をそのように書くならば、「別にScrapboxじゃなくて、チャットでいいんじゃね?」ってことになる。
自分のそれまでの使い方に、ツールを制約してしまう、よくある悲しい出来事。
何か記事を読んで変だなと思ったのだが、Scrapboxの共有編集(という表現もあれだが)によって自己否定に陥ったのではなく、もともとこの人が自己否定的な傾向を持っているのが、Scrapboxの共有編集によってあらわになった、というのが適切だろう。
なにせ被害を受けたわけではなく、そのように想像しただけなのだから。
表現としてはプロジェクトの共有、が正確だろう。
あるいは共同編集か。
ただこういう意見そのものも、直接上の記事の筆者には言いづらいところがある。