ObsidianとNotionと構造化
Notionを数日間利用してみた。
えらく短いな。
「自分が毎日入力しているこの思考は、時間を超えて再び自分に戻ってきているだろうか?」
ノートツールを使っていると湧き上がってくる正当な疑問だろう。
確かに効率的だ。整理されているし、検索性も高い。
ここでの「整理」とは何を意味するのか
整理されているように見える、だけではないか。
つまり整然と並んでいるというだけではないか。
検索性が高いというのは、倉下がNotionについて耳にする話とはまったく違っている
まあ、数日間の利用であれば1万とかのノート数にはなっていないだろうから、そのように感じることはありそう。
・会議中にメモしたキーワードが、翌々日には見つからない
・タグやデータベースで整理したはずの構想が、文脈を失って孤立する
・断片は増えるのに、「本当の気づき」が掘り返せない感覚
三つ挙げられているが、それぞれは「時間を超えて再び自分に戻ってきている」と関係しているか?
会議中にメモしたキーワードが、翌々日には見つからない
Notionの検索の貧弱さではないか?
そもそもメモの仕方が悪いのではないか?
タグやデータベースで整理したはずの構想が、文脈を失って孤立する
その「整理」とは何か。
どうのようにしてタグやデータベースで構想なるものが整理できるのか?
「文脈を失って孤立する」
文脈を保存していないのだから、失うのも当然。
タグやデータベースで「整理」された構想の文脈は、タグやデータベースではなく自分の脳にしかなかった。だから時間が経てば失われるのは必然
→うちあわせCastで何度も言及している話
断片は増えるのに、「本当の気づき」が掘り返せない感覚
断片が増えるのはたしか。
「本当の気づき」とは何か。
掘り返せないとあるが、その表現からは「以前はあった」ということが想定されるがそれは本当か?
情報は残っていても、思考が残っていないということだった。
思考を書き残していないから当然そうなる。
そんなとき、Xでふと目にした一文が刺さった。「Obsidianを使いはじめてから、自分の脳の地図が見えるようになった」
自分はそんな感じはまったくしない。Cosenseでも同様。
グラフビューは「自分の脳の地図」ではありえない(どんだけ狭いのだ)
ツールというより、考えることそのものが変わるらしい。
いや、そんなことはないだろう。
ただ、万能であるがゆえに、「思考の深まり」には適さない瞬間がある。 例えば、ある日思いついた「言語化できない違和感」についてのメモ。
よくわからないけども、言語化できない違和感をどうやってメモという言語化装置で保存したのだろうか。
それとも、もっと単純に「言語化できない違和感」とテキストで書かれたメモの話だろうか。
確かにページは存在していたが、タグの海に埋もれ、思考の熱量ごと消えていた。
この文の意味が取れない。
「タグの海に埋もれる」は何を意味しているのか
一つのページにたくさんのタグがついていることなのか、大量のタグリストがあって一つのタグが目立たない(タグパネルの肥大化問題)ことなのか 「思考の熱量ごと消えていた」
これは文脈の喪失と同じ意味だろうか。仮にそうだとしたら文脈を書き残していないのだから失われて当然。
・階層構造にしても、「あの時の自分の気持ち」が見つからない
・プロパティを整えれば整えるほど、"今"の感情が浮かばない
・データとしては整理できても、「自分が考えたこと」として再生されない
そりゃそうだ。
いちいちこまかくツッコミは入れない
ツールの問題ではなく、すべて使い方の問題
そう。Notionは思考の倉庫にはなれても、思考の再生装置にはなれなかったのだ。
にもかかわらず、ツールの問題にしている。
「蓄積はされているはずなのに、自分の中に残っていない」
ちょっと意味がわからない。
ノートツールは外部に情報を保存するために使うのだから、「自分の中に残っていない」は当然だろう。それとも、勉強のためにノートを使っていたのだろうか。
というか、蓄積的な行為しかしていなかったら、自分の中に残っていないのだろう。
これもツールの問題ではない
以降はObsidianについて
だが、仕組みを知れば知るほど、その正体は「個人知のOS」だと理解した。
・双方向リンクで、思考の断片同士が自然に接続されていく
・グラフビューで、思考の構造が可視化されていく
・すべてのノートはローカルに保存され、自分の身体感覚と同期する
「個人知のOS」という言葉についてはいったん置いておく
双方向リンクで、思考の断片同士が自然に接続されていく
「自然に」の意味がよくわからない。リンクを作るのは人間なのでむしろ「意図的に」だと思う。
グラフビューで、思考の構造が可視化されていく
単純なグラフビューは、つながりだけを示して、その関係がどのようなものであるかを明示しないので、「思考の構造」は可視化されていない。
すべてのノートはローカルに保存され、自分の身体感覚と同期する
「自分の身体感覚と同期する」がどういう意味なのかわからない
「情報が一つの物のように、そこにあるかのように感じられる」という意味ならば理解できる
使えば使うほど、「これは道具じゃない、自分の内面の鏡だ」と思うようになった。
「内面の鏡」は道具なのではないだろうか。
Zettelkasten的な思考整理──つまり、小さなノートをリンクで束ねることで、知識が知識を呼ぶ循環が生まれる構造に、確かな可能性を感じた。
Zettelkasten的な思考整理は、小さなノートをリンクで束ねることで、知識が知識を呼ぶ循環が生まれる構造ではない。
初めに作ったノートは「!!index」。ここを自分の頭の中の"地図の玄関口"にした。そこから以下のようなノートを派生させていった。
とてもよい使い方だと思う。
・バズ構造:SNSにおける拡散メカニズムの構造分析
・感情経済:承認欲求やRTに絡む心理の循環
・note構想:記事化のためのテーマ整理と構造分解
もう怪しい
独立したページを作るのがあきらかに早すぎる
そこから定期的にリンクを張り、別ノートへ展開。関連が見えたらまとめノートを作る。
とてもよい使い方に読める。
このシンプルな運用で、情報ではなく思考が循環するようになった。
思考は循環したらマズイとは思うけども。
Obsidianを触りはじめて数日は、それこそ夢中だった。頭に浮かぶことを自由に書き出せる感覚。好きなキーワードでリンクを作り、ポンポンとページが増えていく。そのうち自分だけの「思考の宇宙」ができあがるような高揚感に包まれていた。
けれど、3日を過ぎたあたりから、少しずつ雲行きが怪しくなっていく。
三日
けれど、3日を過ぎたあたりから、少しずつ雲行きが怪しくなっていく。
・この断片は、どのノートに分類すればいい?
・新しいリンクを作るべき? 既存のノートに書き加えるべき?
・そもそもこれは、後から読み返すに値する内容なのか?
そんな風に、書き始める前に「考えること」が増えてしまい、手が止まる瞬間が増えた。
メモは自由に書きたいはずなのに、構造を気にしすぎて書けなくなっていく──そんなジレンマに陥っていた。
当初は自由さに魅了されたObsidianだけど、それはつまり「自分で設計しないとどこまでも拡張していく世界」だったのだ。
?
そのための「!!index」ではなかったのか?
そもそも「!!index」の使われ方の理解を倉下が根本的に間違えている?
単純に高級ノートには書く内容を精査しすぎてメモが書けない、という話と同じだと感じる
「自分で設計しないとどこまでも拡張していく世界」
この「設計」が何を意味しているのかが不明
制限をかけるという意味であれば理解はできる
自分で構造を「設計」してしまったから、迷っているというのがここまでの話に読めるが
たぶんだけども「書きながら、考える」ことにあまり慣れていないのではないか
フリーライティングの練習をすすめたい
このように、Markdownと日本語IMEの相性は必ずしも良好とは言えなかった。
ごく普通に考えれば、この話は出てくるように思うが、倉下の身の回りの人でそこまで強く気にしている人はいない。
なぜだろう。
慣れているから?
おそらくそうだろう。
Cosenseだと、マウスで選択した後に付与することもできる
ツールの特性に慣れるという選択もあったかもしれない。でも、「慣れ」を待つほど、私の思考は寛容ではなかった。
寛容とかそういう話ではないと思うが。
気づけばVault内にノートが30を超え、しかもどれも中途半端な状態だった。
30はすごく少ない気がする。
デジタルノートツールの使いはじめは、どのようなものでも中途半端な状態になる。三日で完全な状態になるノートはほぼない(あるとしたら、単に知っていることをまとめだけのノート)
・断片の粒度がバラバラで、どこにリンクすべきかわからなくなる
・階層で分類しようとすればするほど、複雑になっていく
・タグを使って横断しようとすれば、結局「同じような名前のノート」が複数できてしまう
それぞれの指摘はある程度正しい。
断片の粒度がバラバラで、どこにリンクすべきかわからなくなる
ばらばらの粒度を扱えることがメリットなのだと理解する
「どこにリンクすべきか」は自分で決める。決めた後間違っていると気がついたらつけかえたらいい
階層で分類しようとすればするほど、複雑になっていく
そもそもObsidianなどのリンク型ツールは階層で分類するためのものではない
Zettelkastenもそんなことは言っていない
タグを使って横断しようとすれば、結局「同じような名前のノート」が複数できてしまう
「同じような名前のノート」が複数あって何が問題があるのか?
そうしたものを一括で横断できるのがタグではないのか?
そもそも倉下の考えではObsidianではタグは別に使わなくても管理可能
情報整理の考え方が、フォルダベースのままにネットワーク型ツールを使っている印象を受ける
Obsidianの構造は、「自由に分類できること」が逆にハードルとなる。
これはまさにその通り
「逆に」ではなく、まさにそれが自由が抱える問題
「この概念はnote構想にも関係あるし、SNSの構造にも通じる…じゃあ、どっちにリンクさせればいいのか?」
この問いがフォルダベースの発想になっていることを示している。Zettelkastenの運用もうまくできていない。
「どちらにもリンクさせる」のがネットワーク型の発想
私の思考スタイルは、「まず書く」→「あとから繋ぐ」という流れが基本だったのだ。
とてもよくわかる。
・瞬間的なひらめきをメモする
・数日後、それに別のメモが自然とリンクする
・文脈ができて、ようやく1つのまとまった概念として認識される
つまり、「書いた瞬間に構造化する」のではなく、「断片を後から編み直すことで意味が生まれる」タイプだった。
「書いた瞬間に構造化する」ことはそもそも無理
「断片を後から編み直すことで意味が生まれる」というか、意味とは後から編み直すことで生まれるもの
Obsidianは先に構造を設計し、リンクで整理していくツール。私にとっては、構造化が先に来ることで、思考が"編まれる前に分類されてしまうような感覚だった。
そんなツールではない。むしろ先に構造を設計するのはNotionのようなツール。というか、Notionの発想でObsidianを使っていただけではないか。
リンク機能、特に書き出したものを後から切り出す行為は「構造を設計し、リンクで整理していくツール」とはまったく逆の働きをする。
これは、ツールが悪いわけではない。むしろObsidianは、先に体系を作ってから知識を注ぎ込むタイプの人にとっては、完璧な環境だと思う。
まさにこれはNotionのことだろう。
Obsidianで先に体系を作るなんていうのは無理だ。完璧な環境にはほど遠い
以降はNotionの使い方の話に戻るので割愛