2025/2/21
Tweetする代わりにここに書き込む
移動中のメモはまずWorkFlowyでよい
PDCAサイクルは嫌われているし、実際問題もあるが、たいていの場合なんちゃってPDCAしか実施していないのではないか 「フレームワーク」の弊害
表面的に(言い換えれば、情報として)理解したつもりになって、その実ぜんぜんわかっていない
情報として手軽にわかることと、そのノウハウがスキルとして身につくにはかなりの距離がある
その方策を持っていないと、途中で挫折することが増えてしまうように思える
情報をノウハウに、ノウハウをスキルする力(メタ・ノウハウ)が切実に必要だと思う。
プログラミングでフレームワークは便利に使えるが、それを使ったからといってその人のプログラミングスキルが向上するわけではない
フレームワークは骨組みであり、骨と知肉が合致しないことも十分ありえる
インフォメーションベース、ドキュメントベース、アイデア(あるいはシンキング)ベース
説明を補佐する、行為と判断を支える、……、思考を支える
4つの枠組みで捉えたい。ただし四象限ではなく、ベン図のような形にしたい
プロセスを捉える
「考え事」をどう支えるのか、という観点での分類もある
インフォーメーションとアイデアがその点で重なっている。
観点によって、分類の軸も変わってくる、ということ。
プロジェクトに類する情報、いいかえれば in progressのような状態管理を必要とする情報もある
一日が終わったらメモをたたむ
たたむはアウトライナーのcollapse
ノートひらき、ノートじまい
それぞれで何をするのか
以上は、WorkFlowyに簡易にメモしたものをこちらに移しながら書き足したもの
走り書きメモ→(ちゃんとした)メモ
ついでにページの切り出し作業も起きている
明日はブックカタリストのイベントなので、なるべく体力は温存する方向で
ポメラがUSに
静的なものを扱う(あるいは静的に押しとどめる)管理と、動的なものを扱う管理、というものがある
部下が意欲的に成長しているときに、上司が変化しなくていいのか、という問題。
そういう問題をきちんと考えている企業がどれくらいあるだろうか。
人間は愚かな生き物だが、現代では個人の愚かさが内部に閉じておらず、強い外部性を持つ
当人だけの問題ではない、ということ。
もともと人の名前を覚えるのが苦手なのだけども、妻の親戚の人たちの名前がぜんぜん覚えられない
日常的に顔を合わせるわけではないけども、何かしらの行事のときに会うことは多い、という距離感が記憶を難しくしている気がする
もちろん、自分の老化もある
一度ノートに書いて整理しておいた方がよさそう(失礼だし)
Cosenseでのかんばん方式を考えたい
とりあえず in progress なものを扱うとして、それ以外のフラグには何があると便利か
一つのプロジェクト内の管理なら、{todo, doing, done} {未着手、進行中、作業済み、完了} といった管理が可能だが自分がこのCosense内でやろうとしていることは、そのタグではうまくいかない予感がある。
自分(倉下忠憲)がどんな戦略を持っているのか(主にセルフマネジメントについて)をがっつりまとめておきたい
読むのが嫌になるくらい分厚く or エッセンシャル版
分厚さと手厚さ
考えを再記述する
というメモを見つけた。
「いい人」は性質的な記述は「いい人であろうとしている人」は姿勢的・志向性的な記述
違いがある
「いい人」は、その性質と対象の人がぴったりとくっついている、あるいは内在している
一方で、「いい人であろうとしている人」は、いい人だと思えるような行為と、その人の間にマージンがある。
だから、違う行為をすることもあるだろし、ある時点からそうじゃなくなるかもしれないというマージンも生まれる
作業リスト(作業記録)は別の場所なので、原稿に集中しているとここが空く
revisionも目標の研究も、内面化された規範についての話である。
方法は無思想ではない(思想的に純粋な方法などない)
方法の背後には思想がある
方法の背後には、何がどうなっているのか、それはどうあるべきかという世界観や規範があって、うまくいかないときにはそれが齟齬を起こしていることがある。でも、世界観や規範は「そうだ、変えよう」と思って変えられるようなものではない。
「焼け石に水をかけまくる」みたいなことが必要になるのだろう。
ワーク・ライフ・バランスを再評価する
「ワーク・ライフ・バランス」という言葉が社会で使われることが当たり前になってきた
しかしながら、本来「ライフ」があり、その中に「ワーク」があるわけで、それをバランスするという発想自体がちょっと歪んでいる、という批評がある
その通り
基本的にはカテゴリーエラーだろう
なぜそれが起きるのかと言えば、ここでの「ライフ」が総合的なものではなく「仕事以外の生活」として定義されているからだ
逆に言えば、生活は、仕事の否定形からでしか定義されていない
それが日本社会での「働く」ということだったのだろう
企業戦士的価値観
一方で、本来的な構造に戻すという試みなら意義ある姿勢だとは言えそう。ただそれを「バランス」と呼べるかは議論の余地があるわけだけども。