🔬幸福概念の再検討
反幸福論
私たちは幸福に生きるべきなのか?
あるいは幸福に生きてさえいれば、後はすべて気にしなくていいのか
幸福についての異なる道、別の仕方があるのではないか
あるいは、人はなぜ幸福について考えるのか?
個々人がどう生きるのかを「考える」上で参照点(基準、目指すべき地点)になるから
あるいは自分がどう生きたかの評価をする点にもなる
「幸福」という概念は、私たちを幸福にしているのか?
もしそうでないなら、それを再検討した方がよいのではないか?
『ハッピークラシー』の問題提起
「幸せの追求はじつのところ、アメリカ文化のもっとも特徴的な輸出品かつ重要な政治的地平であり、自己啓発本の著者、コーチ、[…]心理学者をはじめとするさまざまな非政治的な関係者らの力によって広められ、推進されてきた。だが幸せの追求がアメリカの政治的地平にとどまらず、経験科学とともに(それを共犯者として)機能するグローバル産業へと成長したのは最近のことだ」(「序」より)。
幸福とは何か?
当人のある心理的な状態なのか、それともそうした状態の継続(積分)なのか、それとも置かれた環境の評価なのか
幸福と満足と興奮と希望は等しいのか。あるいは幸福と幸せは同じか。喜びはどうか。
不満の欠如と、ある精神的な状態を有していることの違い
それぞれの言葉の対義語はどうなっているか
幸福が感情そのものではないにせよ、感情と関係している可能性は高い
人(というか脳)は差異に反応する。同じものには注意を払わなくなる(慣れともいう)。何かに向かうプロセスは、変化の連続であり脳は常に新しい情報を受け取っている状態だと言える。一方で何か完成した後の継続していく生活は安定の連続であり、脳は新しい情報を受け取っていない状態だと言える。
この差をどう評価するのか。
現状について不満があるが、それを歯を食いしばって変えていこうとするとき、人は充実感を覚えているが、まさに「幸福ではない」からこそ変化を求めている、ということがありうる。
幸福であるかどうかは別として、一日の中にちょっと嬉しいこと(小確幸)があるのはよいことに思える。
最大多数の最大幸福、快楽計算では、快楽が一つのキーになっている。
本当に大切なものは目には見えない、のだとしたら、僕たちはそれを感じ取るしかない。
心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ
On ne voit bien qu’avec le cœur. L’essentiel est invisible pour les yeux.
星の王子さま
「目には見えないものを見る訓練」が必要となる
凡庸性の帝国主義、あるいは幸福の平坦化について: 極東ブログ
若い人たちが「タイパいい」とか「コスパ大事」とか言うのも、効率的な最適解の幸福を追いかけてるってことだろう。AIが生活に入ってくる中で、そういう考え方が広がってくる。
凡庸さが徹底してると、画一性とも違うわけね。多様だけど、凡庸。というだけ。 AIが効率的な答えを出すたび、楽になり、本当に異質なものは不可視になっていく。それで幸福。不幸が見えないことは幸福なんだよ。あるいは、不幸というのは、メディアの向こうで見たり、SNSでリツイする「物語」なんだろう。
「幸福」という概念にイノセントな希望を抱けていないのはこの辺が関係している。
最大多数の最大幸福という功利主義への批判ではなく、そもそも「幸福の追求」が生にとって本当に大切なことなのか、という点が気になっている。
幸福な生活を送っている人は、自分が幸福かどうかなんて考えない。そこから幸福だと思わないような状態が幸福なのだ、という主張が出てくる。そうなると、たとえ不幸な状態にある人でも「自分が幸福かどうか」という思考を廃棄すれば幸福になれるということになる。実際、「ありのまま」を信奉する場合は似たような理路になるだろう。でも、本当にそれでよいと言えるのか。
ただこの「よいと言えるのか」が、何にとって、という前提があって、そこがいまいち判然としない
その人の生において? それとも人類として?
理想や展望や内省がまったくなく、ただ現実に対応するだけの生。仮にそれが、原始時代の私たちの生だったとして、そうした生き方が「正しい」と言えるだろうか。
いや、「正しい」を問うこと自体に、理想への眼差しが含まれてしまっている。
「ただ、ある」というのはそういうことだろう。それに向けられるあらゆる問いを前提の段階で無効化してしまう。
「ただ、ある」ということが良いことなんですよ、という主張はその意味で欺瞞がある。
単一の感覚に最適化された生活のいびつさ
西洋中心的な価値観
自己啓発が抱える問題もここにある
幸福は感じるもの、幸せは見つけ出すもの、とひとまず言ってみるテスト
ご機嫌に生きることは、小さな幸せを大切にすること、とひとまず言ってみるテスト
ご機嫌に生きる
三大幸福論を読む
プロダクティビティークラシーという概念も関連して考えられる。
生きることとは死ぬまでの暇つぶし
from 🗂️倉下忠憲の事語り