考えと世界と隙間
広い広い部屋がある。
その真ん中にひとりの男が立っている。
「左には壁があって、一歩も進むことはできない」
「前には壁があって、一歩も進むことはできない」
「後ろには壁があって、一歩も進むことはできない」
そうして男は、広い部屋の中、ずっとたたずむことになった。
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狭い狭い崖がある。
その先端にひとりの男が立っている。
誰かが男の考えに影響を与えた。
「さあ、前に進むんだ。それが君の未来だ。一歩を踏み出すことは勇気なんだ」
「さあ、前に進むんだ。それが君の未来だ。一歩を踏み出すことは勇気なんだ」
「さあ、前に進むんだ。それが君の未来だ。一歩を踏み出すことは勇気なんだ」
「さあ、前に進むんだ。それが君の未来だ。一歩を踏み出すことは勇気なんだ」
そうして男は、何もない虚空に、勇気を持って一歩踏み出した。
男の行方を知るものはいない。
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考えは、行動に影響を与える。
考えは、行動を左右する。
考えは、行動に表れる。
洗脳などとおおげさな言葉を持ち出す必要はない。曲がったことのない角の先の道について、「ああ、あそこは行き止まりなんですよ」と誰かが言ったら、私の世界地図はそのように描かれてしまう。そして、ルート選択からその道は外れる。言ってみれば、そんなことの延長があちらこちらで起きているのだ。
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疑う→確かめる
壁があるというのなら、本当に壁があるかを確かめてみる。ちょいと足を踏み出して、前に進めるかどうか確認してみる。
前に進むことが勇気だというなら、半歩だけ足を前に出してみる。世界がぐらつかないかと確認してみる。
それからでも、決定は遅くはない。そう、それからでも決定は遅くないのだ。
疑うことの賛美でもなく、非決定の自由さでもない。単に、決定を少しだけ遅らせること。ズラすこと。その間に、できることをすること。ただ、それだけだ。
どちらにせよ、何かの決定から逃れることはできない。だからといって、猪突猛進に決めることだけが決定ではないだろう。
たとえそれが10秒に満たない時間だとしても、反射的に決めることとは違いが生まれるように思う。