弁証法
弁証法(べんしょうほう、希: διαλεκτική、英: dialectic)は、哲学の用語であり、現代において使用される場合、ヘーゲルによって定式化された弁証法、及びそれを継承しているマルクスの弁証法を意味することがほとんどである。それは、世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則とされる(ヘーゲルなどにおいては、弁証法は現実の内容そのものの発展のありかたである)。https://ja.wikipedia.org/wiki/弁証法 JI1BXM.icon が続きを書いてみます。
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【1】 「弁証法」の概要
高校の倫理の教科書にはヘーゲル弁証法を「正反合」として紹介していますが、実はヘーゲル自身は弁証法について何の定義もしていません。いとも昔からあるように、当然のように弁証法を使って話題を展開しています。 Wikiからもわかるとおり、「弁証法」は、これを説明する人の数だけ解釈があると思います。
しかし、唯一共通することがあります。
「二律背反(=あちらを立てればこちらが立たず)を併せて一緒に考える」ということです。
この点、事例を以て示します。
(1)A市の警察暑は、車にはカバーを掛けるよう、指導している。∵ 車内が見えるから車上荒らしが犯意を持つ。
(2)A市の消防暑は、車にはカバーを掛けないよう、指導している。∵ カバーがあるから、放火犯は火を着けたくなる。
「(1)と(2)、どちらが正しいか?」を決するのは「ディベート」という手法です。
しかし、ディベートの方向性では何も発展がありません。
折角「合理性があるもの」が土俵に上がっているのに、どちらかを選ぶことで、対立する主張を否定(無視)することになるからです。
ここは、両方を立てるような工夫をすることができる筈なのです。たとえば、上記警察署vs消防署の例の場合は・・・。
(3)不燃性のカバーを開発する。
(4)液晶シャッター付きの窓ガラスを開発する。
(5)車内窓ガラス内側に貼り付けられる不透明シートを開発する。
こうすると、「新たな次元」への展開が期待できるわけです。
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【2】 These(テーゼ)、Anti-These(アンチテーゼ)、Aufheben(アウフヘーベン)、Synthese(ジンテーゼ)
弁証法の言葉を当て嵌めるならば、上記事例は以下のように見ることができます。
(1)がテーゼ(正の命題)、
(2)がアンチテーゼ(反の命題)、
(3)(4)・(5)がAufheben(止揚、揚棄)。
(3)で出来たものがジンテーゼ(合成命題)。
このように現実社会では解はひとつではなく、多くの解が存在しえます。
これが「現実社会では解はひとつではない。」の根拠だと思います。
「弁証法」は高校時代の試験知識だけにすぎない「机上の空論」というものではなく、現実社会での発展を促すツールと見ることができると思います。
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【3】 弁証法的運動は繰返す
【1】のなかの(4)で「運転中に電源が落ちたらどうするんだ!?」という反論は当然考えられます。
これは(4)をテーゼとする、新たなアンチテーゼとなります。
そこでまたAufheben(止揚、揚棄)していけばよいだけです。
バックアップ回路を付けるのは如何がでしょ?
無通電時に透過状態になるような液晶類似のデバイスを開発するってのは如何がでしょ?
【1】のなかの(4)・(5)で、「これでは車が汚れるじゃないか!」という反論も当然考えられます。
これも(4)・(5)をテーゼとする、新たなアンチテーゼとなります。
これもまたAufheben(止揚、揚棄)していけばよいだけです。
車の塗装と液晶ガラスに汚れがつかない透明の光触媒塗料を開発する・・・なんてなのはどうでしょ?
(でも、出来るのか?? これ??)
このように、ジンテーゼができると、それをテーゼとして新たなアンチテーゼが必ず現れます。
ならば、更にAufheben(止揚、揚棄)していけばよいだけです。
つまり、永遠にAufheben(止揚、揚棄)を繰り返して行けばよいわけです。
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【4】日本では古くから弁証法が常識だった!?
理系人は唯一解を追求するように教育されていますので、このような考え方を採ることが苦手なひとが多いのも事実です。
しかし、実は我が国でも、明治時代まではこのような考え方をするのが基本でした。
聖徳太子の十七条憲法の1条は、「和を以て尊しとなす。」これは仲良くしようという意味ではなく、和(ジンテーゼ)が重要と説いていると見ることができます。 同じく、聖徳太子の十七条憲法の17条は、「必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。」つまり、和(ジンテーゼ)のためには、ワイガヤすべきと説いています。 明治時代、文学博士/法学博士であった有賀長雄氏はその著書「文學論」の中で、AnalysisよりSynthesis(保合)が重要である旨を指摘して、弁証法的発想を展開されています。(付近等) 神道では大祓詞(よく神社で神主さんがハタキのようなものを振り振り唱えている祝詞のひとつ)の冒頭段落で、「八百萬神等を 神集へに集え賜ひ 神議りに議り賜ひて」とあり、神様であっても集まってワイガヤで事を進めていたことが示されています。
このハタキのようなもののことを、「大麻」と書いて「おおぬさ」と呼ぶそうです。
文字だけみると物騒ですね。hi
最近ではあまり聞かれなくなりましたが、「そんなことしたら、バチがあたるよ!」というのも、(主語は示されないものの、)子供に対立するアンチテーゼを意識させることが目的だったと言えなくはありません。
物質文明が行き過ぎた現代において、少し過去をみつめて「相手を尊重」することを基調として、ではどのように「合成(Synthesize)」していくのかという視点をもつこともひとつの途なのかもしれません。
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JI1BXM.icon 2023.3.25 16:15 加筆修正