創発する絵画
「自身の内側から生まれる制作物」について
昨今では気にかかる作家も多いだろう
「創発」とは
要素間の局所的な相互作用が全体に影響を与え、その全体が個々の要素に影響を与えることによって、新たな秩序が形成される現象。
いくつか抜粋
創発の要素として、「変数」と言う語が全体を通してよく出てくる
新たな変数を導入したり
制作中に新たな変数が出現したり
「枝がどう伸びるか」のような言い回しもあった
人の心や意識は、いくら外側から脳を画像によって観察しても捉えがたいものだ。なぜなら当の本人の生きた「現れ」によって支えられているからである。それぞれ固有の生に、固有の現れがある。これをイメージとして表象することは、外側から観望したのでは原理的に無理がある。
ではどうすればよいのか。外側から視るのではなく、自らの心の現れによって駆動し、自己産出しつづけるイメージの制作行為が必要になるのではないか。
それは自然を写しとり模倣する絵画ではなく、いわばそれ自身のなかに自然を生みだす絵画である。みずからが生みだす色・形あるいは感触などに刺激されながら、新たな要素を産出してゆく自己触発のつらなりのなかにみずからを巻き込ませて作品世界を出現させる。
こうした「変数の出現」を見てゆくと、まだまだ制作のなかで暗黙に活用している変数がたくさんありそうである。あるいは逆に、あえて無視しているような変数も多くあるのではないか。この変数への気づきにたいしてはたらいているのは、制作行為における感覚の強度だろう。「強度」(意味や測度に還元できない濃密さ)とは、他との差異においてではないそれ固有の強さ・量として制作者自身に感じとられている感覚の濃密さである。美しさや高揚感など、確かにその強さを感じとっていながら、測ったり意味化することができない、心のそうしたはたらきを、ドゥルーズは強度とよんだ。
「画風」の話
実際のところ、カンバスサイズをいろいろと変えながら、仮に得意なカンバスサイズを見つけたならば、それは自らの能力と自己強化的に結びつき良い作品を生み出す「画風」という画家の性格を形づくるであろう(学習Ⅱ)。しかし、しばらくすれば耽溺を招く恐れもある(自己模倣の誘惑)。これに抵抗し、より能力を拡張するためには、最適値のカンバスサイズをあえて動かし、不得手とする環境に自らを晒すことが求められるかもしれない。
デジタル画像関連の話
始まりは写真=「技術による画像」
「テクノ画像」とは、テクノロジーの装置によって制作される画像である。応用科学の学問的テクストから産み出される。装置とは、計算によって明らかになる思考プロセス(概念)をシミュレートするためにつくりだされたものだ。図像が世界に意味をあたえるものであったのに対して、テクノ画像はテクストに意味をあたえる。
テクノ画像の代表格が1900年頃の写真技術の誕生であり、それ以降のメディア(写真/映画/ビデオ/テレビ/コンピュータ・グラフィックスなど)をもまた指している。また、テクノ画像の意味からすれば、本来ならば図像に含まれるような(青写真/図案/グラフ/挿図など)もその範疇に含まれる。図像とテクノ画像とが存在論的に大きく異なる点は、前者が具体的な世界から抽象して現象を指し示すのに比べ、後者はテクストから抽象したイメージが概念を指し示すことである。図像は「前歴史的」であり、テクノ画像は「脱-歴史的」とも言える。写真のイメージは、間主観的な装置(写真機)+オペレーター(カメラマン)の複合体と、その諸変数(シャッタースピード、露出、フィルム感度など)や撮影場所の視点(GPS)の関数として、すなわち算術的テクストの総合として現れるのだ。
フルッサーは、テクノ画像は大きく2つ(エリート的/大衆的)に分類している。一方はエリート的なテクノ画像であり、レントゲン写真のように、画像を解読するためのコードに専門的な知識を必要とし、自らが発信者でありかつ受信者でもある。他方、大衆的なテクノ画像といえば、ポスターのように、解読を不要とする表面があり、発信者と受信者は分断されている。
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支持体を作りながら描く作家
つまり、この世界は動いてるわけよ、俺のなかではさ。何一つ完結しているものはないっていう感覚なんだよね。
そういうなかでも、俺は別に完成させる必要があると思ってるわけよ?当然、完璧も目指してるわけよ。だけど俺のもってる完璧さ、完成っていうのはさ、完結してない世界のなかでの完成の仕方なんだよ。