井戸端問題に疲弊することを通じて
井戸端についてで迷走しながらも自分の態度について反省を列挙したが、今のところ、井戸端コミュニティで僕が発言しても一切の応答はかえってきていない。増井氏などは僕の関与した記事を全て非表示にすることを始めたようで、そういうことに苛まれてもいる。とはいえ、そうやって彼らが彼らなりの幸せを実現しようとしていることはどうこういうべきものでもないし、むしろ歓迎すべきことだ。僕自身も、彼らに関与することをやめ、距離を置くということが、お互いに幸せになるものなのだろうと思う。僕は僕で口から出かかっていることがあるし、それは彼らにも同様のことなのだろう。 この問題で僕は大変に疲弊し、井戸端からほとんど村八分になりつつあることに苦しんでいたが、その苦しみはまさに、僕が他人の幸福に関与したいと願うところに始まりがあるように思う。こういう時には無関心が大事だ。こうやって、「僕はなぜそれを苦しいと思うのか」を問うことが、僕が知らなかった新たな本質を見出すためのいい機会なのだと思う。
苦しみは、解決するべきでも、忘れるべきでもない場合がある。それは、その苦しみから目を離さず、その苦しみゆえにこれから何をするのか、その苦しみの上に僕は何を作り上げることができるのかが重要なときなのだ。
私は今回のトラブルで、善意や意図を読み解くことに夢中になって文面を疎かにしがちなこと、他者や社会への貢献を望むあまり、コミュニティからの疎外に激しくストレスを覚えるということなど、自分の知らなかった側面を理解することができた。以前ならもうすこし時間が必要だったかもしれない。しかし、この苦痛から逃げることなく、生活の中で長い時間をかけてその苦しみに向き合うことでよい回復になったと思っている。
井戸端には字面が重要だと強調するメンバーもいる。しかし字面を追うだけではコミュニケーションは破綻してしまう。一方で、意図を汲み取ることばかりに夢中になって記述が飛躍し、一部の人間にしか伝わらないコミュニケーションになることもまた防止するべきだ。相手の意図を汲み取ることと、書かれた内容との繋がりを追うことの両面をバランスよく実現することが、必要なことだったのだろう。