一晩たってこの欲望の着地点と再出発が見えてきたという話
この考え方の問題は、どこにも自分の場所なんてないということ。自殺も社会全体の幸福も、自分という視点の否定になってしまっている。そこで自分を能動的に殺す、という欲望に転じるのは、ある意味では当然だ。自分という視点を否定することで、僕は生き方の可能性を広げてきたけれども、そこには結局自己矛盾が渦巻いていたよね、という反省。
そこで視点を変えて、自分自身がいかに幸せでありうるか、自分の思う喜びや美の感覚にいかに近づいていけるのか、という発想が僕を救うんだなぁと今日、ふと感じた。社会全体の福祉の、一つの具体例として自分の幸福を捉え直すこと。社会全体のそれとは時に矛盾する自分にとっての福祉を誠実に見つめる態度こそ、社会全体の福祉を考える態度であるべきだと思うし、自殺も社会全体を考えるのも、目の前の自分の問題からある意味での逃避という意味を持ってきたよね、と、とても感じるようになった。
もちろんそういう逃避が、混乱する僕に新たな道を開いてきたし、自殺を思い詰める僕が自殺しないで済むためには、逆説的に、自殺を一旦決意する必要があった。「僕という視点」を持たず、死と社会全体のことだけを考える生き方を、一旦肯定してやる必要があった。それが、その時の自分自身と誠実に向き合うことだった。しかしその先には本質的な自己矛盾が多くあった。10年前、あの時の自分に自分なりの幸せを追求できるだけの強さも、それを手放しに許してくれる環境もなかったが、今は違う。今ならきっとやり直せると思う。僕は僕自身を救済しよう。僕のために懸命に生きてみたいと思う。
僕は社会の福祉を願い、それと私の福祉が一致することを望むが、例えその願いがどれだけ誠実であったとしても、私の福祉が社会全体の福祉と矛盾することは、大いにある。例えそうであっても、私自身の福祉を蔑ろにせず、その私自身の福祉のリアリティの先に社会の福祉の全体像を理解しようとする様が、本質的な意味で「社会福祉を考えるという行為」と一致していくのだろう。