謎解き「南京事件」東京裁判の証言を検証する
位置NO516/2257
安全区を掃蕩した日本の部隊には「午前九時宿営地出発夕刻までに帰隊すべし」という命令が、掃蕩隊以外の城内集結部隊には「宿営地付近より以外の地域に行動を禁止」という命令が出されており、安全区に自由に出入りはできませんでした。
位置No.1195/2257
紅卍字会の埋葬記録によると、城外の死体三万一二〇七体のうち、下関から下流にかけてあった死体はー万八二四一体、南京城の西側にあった死体は一万二ニ九八体です。南京特務機関員として埋葬を担当した丸山進によれば、紅卍字会の埋葬記録は水増しされており、それを除くと、下関から下流にかけては七三一五体、城の西側にあった死体は四二六二体になるといいます。
位置No.1219/2257
立証が終わりに近づいたころ、検察側は「崇善堂埋葬隊埋葬死体数統計表」と「世界紅卍字会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表」、続いて「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」を提出しました。ー九四六年一月二十日付となっており、後者は、南京市が挙げて調査した日本軍に関する報告書で、このような犠牲者数を並べていました。
「被屠殺者たる我同胞 二七万九五八六名
新河流域 二八七三名 (廟葬者盛世徴・昌開運証言 )兵工廠及南門外花神廟一帯 七〇〇〇余名 (埋葬者芳緑・張鴻儒証言 )草鞋峡 五万七四一八名 (被害者魯甦証言 )漢中門 二〇〇〇余名 (被害者伍長徳・陳永清証言 )霊谷寺 三〇〇〇余名 (漢奸高冠吾の無主弧魂碑および碑文により実証 )
そのほか、崇善堂および紅卍字会の手により埋葬せる死体合計一五万五三〇〇余」
二行目以降の合計が一行目のニ七万九五八六名となるものではありませんが、このよう
な数字を挙げ、二六万ないし三〇万が犠牲者の概数である、と検察は主張しました。
位置No.1233/2257
「前記各証は南京が日本軍に占領されたあと、実に十年を経過したー九四六年に調査されたと称せられるもので、その調査がいかなる資料に基づいてなされたか判明しない。ことに死体の数に至っては、十年後にこれを明確にすることはほとんど不可能であると言うベきもので、このところに掲げられた数字はまったく想像によるものと察するほかにない」
位置No.1248/2257
「草鞋峡・漢中門・霊谷寺などは、降路口であって、この種の地点において行われる追撃•退却戦闘の特に激烈凄惨を極めるのは当然で、死者また、集団であることは想像でき、これをもって虐殺体だと言うのは当たらざることは明らかである」
そのうえで最後に、
「次にこの証拠の数字については特に作為され、措信できる例を示すべきである」として、崇善堂については、一日平均一三〇体を埋葬していながら、ある期間は一日二六〇〇体も埋葬しています。紅卍字会も一日六七二体を埋葬しながら、俄然、四六八五体や五八〇五体に上ります。そして、崇善堂は、女子供のいない戦場にもかかわらず、常に男子、女子、子供を適当な減少率で埋葬しており、紅卍字会では、同じ場所の埋葬なら初日の埋葬が多いはずなのに、三日目が一桁も多くなっています、と指摘しました。
位置No.1264
人口の推移から明白になった市民殺戮の嘘
埋葬記録によれば、紅卍字会がー九三七 (昭和十二 )年十二月二十二日から翌年十月三十日まで埋葬した死体は四万三〇七一体。崇善堂がー九三七年十二月二十六日から翌年五月一日まで埋葬した死体はーー万二二六六体。合わせて一五万五三三七体です。紅卍字会は新興宗教の道院が一九二ニ (大正十一 )年に設立した慈善団体です。その会員は道院の信者から選ばれ、会費と一般からの寄付金や道院からの援助などで運営されています。主な都市に支部がつくられ、支部長などには地元の有力者が就きました。
位置No.1279
南京でも発足と同時に南京分会と南京下関分会の支部が設けられ、南京攻防戦が間近になると、多くの慈善団体は活動を休止しましたが、二つの支部は活動を続けました。日本軍が南京城に入ったとき、日本の外交官と特務機関も踵を接するように入りました。外交官には在留外国人と外国権益の保護、特務機関には占領地区の住民の意向を汲み取り占領地行政を円滑に運ぶ目的がありました。満鉄上海事務所の職員だった丸山進は、少し遅れて特務機関員に任命され、十二月二十八日、南京に赴任しました。自治委員会が発足して中国人による行政が始まろうとしていたときで、難民救済、経済の復興、政治機構の再建など、特務機関が早急に行わなければならないことはたくさんありました。
南京にあった死体は、戦闘が一段落すると、道路脇にのけられ、あるいは揚子江に流され、簡単に整理されましたが、埋葬されないままにありました。年が明けて伝染病が蔓延する時期が迫ると、衛生上大きい問題となります。一月中旬、佐方繁本特務機関長は、死体を三月中旬ころまで埋葬、その実務を自治委員会に委任し、費用は特務機関が負担する、特務機関側の窓口は丸山進、と決めました。
戦後しばらく経ってからですが、丸山進は大陸時代の体験を「我が昭和史」として『若葉会報』に連載します。その多くが南京特務機関員時代のことに割かれており、それらによれば埋葬の実態は次のようだったといいます。
埋葬作業は、死体を車などに乗せて埋葬地まで運び、深い穴を掘り、埋める、という手順で行われます。自治委員会は行政機構であり、埋葬を行えるのはそれに慣れている慈善団体です。自治委員会は紅卍字会に実務を委託しました。
紅卍字会は農民たちを雇い、一体埋葬するごとに三角 (〇・三元 )を支払います。埋葬数は紅卍字会から自治委員会に報告され、それに応じて特務機関から自治委員会を通して紅卍字会に費用が支払われます。
位置No.1296
そのようなことが決まったころ、国際委員会でも埋葬の話が進んでいました。国際委員会は二四五〇元を用意し、日当四角でーニ七人の農民たちを雇い、そのあとの実務を紅卍字会に任せることにしました。こちらの埋葬が始まったのは一月二十日ころで、二月初めから本格的な作業にかかりました。
これが丸山進の記述と話で、一方、紅卍字会の責任者は三月下旬ころマギー牧師にこう語っています。
「作業を始めた一月二十三日から三月十九日までに、死体をすでに三万ニー〇四体埋葬」また、ミニー・ヴォートリン金陵女子大学副学長は、二月二日の日記にこう記述しています。
「占領以来、紅卍字会は一〇〇〇体を超える死体を棺に収めてきた」これらから、一月二十三日から十日ほどの間は、一日およそー〇〇体を埋葬していたとわかります。
丸山は埋葬全般の管理をするだけでなく、埋葬隊長と会って埋葬の実態もよく把握していました。再び丸山の話に戻ります。このような事実が明らかになります。紅卍字会に財政的余裕がないことを知った丸山は、紅卍字会の言うままに支払いをしました。紅卍字会は国際委員会からも金を受け取り、二重に受け取っていたのです。当初、労働者の数から一日の埋葬数は最大二〇〇体で、二月下旬まで五〇〇〇体が埋葬されました。
しかし、相当数が残ったので、三月に入ると、労働者を増やし、埋葬数を一日平均八〇〇体まで上げ、十五日まで続けることにしました。この結果、三月十五日までに三万一七九一体が埋葬されたことにされ、合わせて一万一〇〇〇元が特務機関から支払われました。三月十五日を迎えましたが、まだ死体が残っているので、さらにーカ月続けることとなり、自治委員会が改組されて市政公署となる四月二十四日まで続けられました。
位置No.1296
そのようなことが決まったころ、国際委員会でも埋葬の話が進んでいました。国際委員会は二四五〇元を用意し、日当四角でーニ七人の農民たちを雇い、そのあとの実務を紅卍字会に任せることにしました。こちらの埋葬が始まったのは一月二十日ころで、二月初めから本格的な作業にかかりました。
これが丸山進の記述と話で、一方、紅卍字会の責任者は三月下旬ころマギー牧師にこう語っています。
「作業を始めた一月二十三日から三月十九日までに、死体をすでに三万ニー〇四体埋葬」また、ミニー・ヴォートリン金陵女子大学副学長は、二月二日の日記にこう記述しています。
「占領以来、紅卍字会は一〇〇〇体を超える死体を棺に収めてきた」これらから、一月二十三日から十日ほどの間は、一日およそー〇〇体を埋葬していたとわかります。
丸山は埋葬全般の管理をするだけでなく、埋葬隊長と会って埋葬の実態もよく把握していました。再び丸山の話に戻ります。このような事実が明らかになります。紅卍字会に財政的余裕がないことを知った丸山は、紅卍字会の言うままに支払いをしました。紅卍字会は国際委員会からも金を受け取り、二重に受け取っていたのです。当初、労働者の数から一日の埋葬数は最大二〇〇体で、二月下旬まで五〇〇〇体が埋葬されました。
しかし、相当数が残ったので、三月に入ると、労働者を増やし、埋葬数を一日平均八〇〇体まで上げ、十五日まで続けることにしました。この結果、三月十五日までに三万一七九一体が埋葬されたことにされ、合わせて一万一〇〇〇元が特務機関から支払われました。三月十五日を迎えましたが、まだ死体が残っているので、さらにーカ月続けることとなり、自治委員会が改組されて市政公署となる四月二十四日まで続けられました。
位置No.1312
日計表では 合計四万三〇七一体が埋葬されたことになりました。
これが丸山の述べる埋葬の実態です。
つまり、埋葬は一月二十三日に始まり、四月二十三日に終わりました。2月中の一日の埋葬数は200体を超えることがなく、三月では1000体を超えることはありません。
ところが埋葬記録によると、埋葬は十二月二十二日に始まり、四月下旬以降も続き、一〇〇〇体以上を埋葬する日が十日もあります。実態と違うのは、三月に入って埋葬数を上げるため、紅卍字会がそれまでの埋葬数を改竄して自治委員会に大幅な支出を求めたからで、数字はあとから書き込めるようになつていて、少なくとも一万四〇〇〇体が水増しされ、最大限に見積もるとーー万七〇〇〇体が水増しされている、と丸山は言います。
もともと紅卍字会の運営は厳しく、埋葬費用を特務機関と国際委員会から二重取りしていたことを認めていました。丸山は記録の実態をこう指摘しています。「埋葬記録によれば、十二月二十八日、六〇〇〇余りを埋葬したことになっているが、この日は私が南京に着任した日で、雪が降っていて、埋葬などできません」これらを頭に入れたうえで記録を見ると、死体のあった場所は戦闘が行われたところと一致しています。数からいって埋葬された死体はすべて戦死体であり、女子供の死体111体はほとんど流れ弾で死んだものと考えられます。
このようなことが明らかとなり、紅卍字会の埋葬記録は殺害を証拠立てるものではまったくないのです。
南京戦が始まる前の十一月二十八日、南京警察庁長官は南京の人口を二〇万と発表しました。
南京が占領されたあとの十二月二十四日、安全区の兵民分離が始まり、一月五日まで続けられました。十歳以下の子供と老女を除いて良民証を発行されたのは一六万人でした。
位置No.1329
南京で発行された『南京市政府行政統計報告』によれば、十歳以下の子供と五十六歳以上の老女の全体に対する比率はーー五・一五パーセントで、それからはじき出すと一月の南京の人口はニー万三〇〇〇余人と推定できます。
ただし、これには調整が必要となります。
南京の青年は上海戦とともに徴兵され、その比率は下がり、一九三八 (昭和十三 )年一月の十歳以下の子供と老女の比率は平常より高まっていると考えられ、21万三〇〇〇余人より多くなります。国際委員会では良民証の数から25万、あるいは25万から30万と見なし、ラーベ委員長は25万と見ていましたが、それに近いでしょう。つまり、南京で戦闘が始まる前の人口は20万、戦闘が終息して半月ほどしたときの人口は25万前後。この人口の推移からも、市民殺戮はなかったことが明らかです。
慈善団体の活動をここまで偽造するとは
紅卍字会の埋葬記録についてはこのようなことが明らかになりましたが、もう一つの崇善堂とはどのような慈善団体で、どうして紅卍字会に勝る活動をできたのでしょうか。法廷に提出されたものから、周一漁が責任者ということ以外はわかりません。多くの証人が出廷して証言しましたが、彼らが崇善堂を挙げることはなく、証言からも崇善堂というものはわかりません。
当時の日本にとって南京陥落はきわめて大きい出来事で、新聞で連日大々的に報道されると、引き続き作家たちの南京従軍記、新聞記者の手記などが雑誌に掲載されました。それらを丹念に追っていくと、騒々しい難民区、城壁の堅牢さ、南京の防空設備などが報告されていますが、崇善堂は姿を見せません。紅卍字会がしばしば記事になっていることか
位置No.1345
ら、慈善団体を無視していたわけでありませんが、崇善堂は現れないのです。
結局、当時の新聞や雑誌のどこにも崇善堂という文字はありませんでした。そのため、期間を延ばし、また書籍まで広げ、探すことにしました。すると、ー九四一 (昭和十六 )年に南京日本商工会議所が編纂した『南京』という本を手にすることができました。南京が陥落すると、日本軍を相手に商売する人が内地からやってきます。ー九三九 (昭和十四 )年になると、支那派遣軍司令部が創設され、汪兆銘を主席とする国民政府が発足し、日本の大使館が置かれます。南京に来る日本人は増え、日本人による商工会議所が設立されます。その商工会議所が編集し、南京を紹介したのがこの本です。当時の中華民国側の資料を駆使して編集したもので、七〇〇ページに及び、そのなかに崇善堂という文字が出ていました。
「第二項 救済 第一目 事変前」という見出しの下に、「慈善団体 南京に於いては市営救済院の外に教会寺院その他の経営する左の如き交易慈善団体があった」
と説明され、四六の団体が挙げられ、その一つに崇善堂があったのです。それによると崇善堂は、清の嘉慶二 (一七九七 )年に成立、金沙井にあって、陸晋軒が主持人、哺嬰・教育・物品掛売を事業内容としているとあります。つまり、城内の南にある古くからの慈善団体で、支那事変が起こるまでは、赤ん坊を育てたり、教育したり、掛け売りをしたりという活動をしていました。
ただし、埋葬は行っていません。事変前に埋葬活動を行っていたのは12の団体で、それらの団体の「事業」にははっきり「埋葬」とあるからです。
数ページ後、「第二目 事変後」と見出しが改まり、同じように、「慈善団体 南京市にあった民間各種慈善団体は事変のため資金難に陥り一時停頓したが、振務委員会の補助を受け漸次復旧し民国二十八 (昭和十四 )年度における市政府調査によ
位置No.1362
れば左のごときものがある」
と説明され、二六の慈善団体が挙げられています。ここにも崇善堂があって「崇善堂 開設二十七 (昭和十三 )年九月」
とあります。
っまり、慈善団体の多くは支那事変が起こったため活動を停止し、崇善堂も同様に停止しましたが、しばらくすると半分ほどが復旧し、崇善堂もー九三八 (昭和十三 )年九月に活動を始めた、と言っています。
法廷に提出された記録では、ー九三七 (昭和十二 )年十二月十六日から翌年五月一日まで埋葬活動をしたことになっていますが、『南京』はこの時期、崇善堂は活動を一切していないと言っています。もちろん埋葬もしていません。
https://scrapbox.io/files/672e678752ba48e638ba6717.png
位置No.1369
日本の記録からはこのようなことがわかりましたが、それでは中国側に崇善堂についての記述はないのか。そう考えて当時の中国の記録を探すことにしました。
すると、ありました。
ー九三八年三月二十八日、中華民国維新政府が成立、四月二十八日、督 〇南京市政公署が成立します。一九三九 (昭和十四 )年三月、督 〇南京市政公署秘書処が編集して「中華民国二十七年度 南京市政概況」を刊行しました。このなかに「南京市慈善団体調査表」という表があり、一五の慈善団体が挙げられています。そこに崇善堂もあり、「主要工作」は「○○施材施診施 惜字散米」、「主持人」は「周一漁等」、「現在情形」は「工作進行範囲狭小」とあります。
これから、崇善堂はー九三八年に入ると、赤ん坊を育てたりしていますが、やはり埋葬はやっていません。主要工作が「掩埋」の慈善団体は三つあり、崇善堂の工作に「掩埋」はありませんから、埋葬をしていないことははっきりしています。また、事変後、責任者が周一漁たちに代わったということがわかります。活動ぶりに「業務正在進行」「工作進行」とつけられた団体がありますが、崇善堂は「工作進行範囲狭小」とありますから、活発ではなかったこともわかります。
「南京市政公署振務委員会収支表 中華民国二十七年五月至十二月分」という表もついています。振務委員会とは、南京督 〇市政公署が誕生すると、社会整備と難民救済のため設けられた部署で、慈善団体を管理しています。表には、社会整備に支出した金額が計上されており、ー〇余りの慈善団体に補助金を支出していて、崇善堂にも二〇〇元を支出しています。
これらから、崇善堂は市政府の援助で少しずつ活動を始めたことも明らかとなります。赤ん坊を育てるには、小さい寝台と世話に慣れた女性がいなければなりません。炊き出しをする慈善団体には、鍋と釜と大量の米や小麦が必要です。埋葬となれば鍬、車、男手が必要です。慈善団体はそれぞれ得意の分野に分かれて従事しています。
位置No.1386
つまり、崇善堂が埋葬活動に従事することはまったくなく、法廷に提出された埋葬記録は偽物以外の何ものでもないことがわかります。
崇善堂の埋葬記録は、埋葬年月日、埋葬隊の名前、死体のあった場所、埋葬した場所、男、女、子供に分けた死体数、おまけに埋葬場所の写真と責任者の最近の様子まで加えられた精細なものでした。また、南京自治委員会の用紙に、筆で記入され、印鑑が押され、ー九三八年作成、とまであります。埋葬されたという写真がー九四六 (昭和二十一 )年一月に撮られていることから、実際はこのとき偽造されたのでしょう。
丸山進は「我が昭和史」にこう書いています。
「崇善堂の埋葬死体のーー万二、二六六体というのは説明を要しないほど明白なうそである。これだけの死体を埋葬するには少なくとも人夫が十四万乃至十六万人必要であろう、当時の実状からして何等の手当給与を受けずに埋葬事業に手を貸すような人夫はいないはずだ。人夫賃だけで四万二千元が必要であるし諸経費を加算すれば四万五千元が必要だ。当時崇善堂についてはほとんどその存在すらも知られていない弱小の慈善団体にすぎず有力なスポンサーがついて埋葬活動を助けたという話をきかなかった。それ故これはまったくのうそであると断ぜざるを得ない。また当時の記録にもない」
一言のもとに切り捨てています。
中華民国は、埋葬記録を偽造し、二〇万以上という判決文を書かせたのです。検察側が提出した「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」は、新河流域、南門外、漢中門など戦闘があったところの数字を虐殺したものとし、偽装した埋葬記録を並べたものです。
南京にあった死体は紅卍字会が埋葬したものだけで、見た通りすべて戦死体です。
不法に殺戮された死体は南京になかったのです。
位置No.1403
アメリカの外交文書のエスピー報告に、このような記述があります。「安全委員会は十二月十四日、日本大使館員より、日本陸軍は南京を手痛く攻撃する決心であるが、大使館員はその行動を緩和しようとしている、との通告を受けた」もう一つのアメリカ外交文書、ジョンソン駐華アメリカ大使の入手した情報には、次のようなものがありました。宣教師のボイントンが話したことだといいます。
位置No.1417
「 (日本大使館員は日本軍の行動を )東京に打電連絡しょうとしても電報が軍管理のため、これも絶望である。そのようなことから大使館員は宣教師に、彼ら宣教師より日本国内にこれらの事実を公表するように試み、日本政府が世論により軍隊を抑制するように仕向けてはどうか、という話があったほどである」
ベイツ教授は検察官から、日本の官憲は日本軍の行動を支配するためにどのような手段をとりましたか、と質問されて、こう答えました。
「大使館の文官は、その困難の一つは憲兵隊員が少ないからであると言われました。彼らの話によれば、占領当時はその数は一七名であったそうであります」
開廷前の尋問で検察官は松井司令官に対し、松井司令官が職を免ぜられたという文書があり、松井司令官とともに八〇名の参謀将校も帰還したとアーベンド記者は述べています、と話していました。
また外務省の石射猪太郎東亜局長は、上海の外交団から不法行為の報告を受け、それを外務大臣に報告し、報告は陸軍省に回され、連絡会議が開かれた、と法廷で証言し、さらに、日本の不法行為が海外の新聞に載っており、それを省内に回覧していた、とも証言していました。
弁護側はこれらのうちの一部を認めて反論しませんでした。松井大将が不法行為の報告を受けていたこと、報告が外務省に送られたこと、それが連絡会議で検討されたこと、事件が海外の新聞で報道されていたことなどです。
しかし、それ以外は反論し、まず憲兵の数については日高信六郎参事官がこのように証言しました。
位置No.1433
「数日中に四〇名の補助憲兵が得られるはずだということでありました」松井司令官のとった処置については、野砲兵第三連隊観測班長の大杉浩少尉がこのような例を挙げ、効果があったことを証言しました。
「隣接中隊の兵が憲兵に逮捕されましたので、私は中隊長に随伴して身柄引き取りに行きましたが、憲兵分隊長は右の兵は強姦の罪を犯したとの話をし、かつ松井司令官の指示により軍紀•風紀違反者は特に厳粛に取り締まり、違反者は厳罰に処する方針であるからと言って、身柄を渡してくれませんでした」
中山寧人中支那方面軍参謀は、十二月二十六、七日ころ南京の上海派遣軍司令部に行き、松井司令官の、いっそう軍紀•風紀を厳重にし不心得者があったら厳重に処罰せよ、という主旨を伝えたときのことをこう証言しました。
「上海派遣軍の参謀長または参謀は、自ら毎夜市内を巡察して軍紀・風紀の徹底を図っているとのことでありました」
松井司令官自身、東京裁判が開廷する前の一九四六 (昭和二十一 )年三月、検察官から尋問を受けたとき、次のようなやり取りを行っていました。
問「軍法会議の判決はいかがでしたか」
答「将校は死刑に処せられ、兵は投獄されたと思います。これは自分が犯罪者に対し峻厳なる懲罰を主張した結果です」
松井司令官が召還されたことについては、中山寧人少佐と裁判長との間で次のようなや
り取りが行われました。
裁判長「松井被告は、南京の凌辱事件に対する処罰として、畑被告と交代させられたの
中山「そういう事実は絶対にありません。松井大将が辞められたのは、松井大将が老齢であり、しかも予備役から軍司令官に就任されましたので、功成り名遂げましたので、現役の将官と交代するのが適当と認められたのだと、私は推測しているのであります」
松井司令官も、検察官が『現代極東史』という本を引用して尋問したとき、同様のことを述べていました。このようなやり取りです。
問「南京のこの情勢のため貴下は司令官の職を免ぜられ、二月、畑大将と交代したという文書がまたこのところにあるが、その通りですか」
答「いや、それは理由にはならない。自分の仕事は南京で終了したと考え、制服を脱いで平和的業務に携わることを望んだのでした」 (中略 )
問「貴下が交代すると同時に、橋本欣五郎および朝香宮鳩彦王ならびに約八〇名の参謀将校が日本へ帰還されたとアーベンド氏は述べている。貴下はそれに関して記憶がありますか。またそれは本当ですか」
答「左様です。しかしながらアーベンド氏の推定は誤りでした。前記二名の将校と八〇名の参謀将校の帰還理由は、在南京の一〇個師団が約五個師団に減ぜられ、その結果、これらの将校が冗員となったためでした。南京には二つの軍司令部があり、これが一つに減ぜられたのです」このように、反論すべきことは反論しました。
位置No.1461
法廷はどの外交官が陸軍の行動を緩和しようとしたのか明らかにしていませんが、国際委員会が十四日に会った人というのですから福田篤泰官補でしょう。福田官補は、十四日、外交官として真つ先に南京に入り、国際委員会の委員と会いました。国際委員会の記録によれば、そのとき国際委員会は名簿を提出して彼らの活動を認めてほしいと要望し、福田官補はそれに応対しただけで、委員会が何かを抗議した記録はなく、福田官補がこのような発言をすることはありません。
大使館員は電報を打てませんから、宣教師から実情を公表してはいかがというボイントンの話も、どの外交官とのやり取りか不明ですが、日高信六郎参事官はこのような証言をしています。
「最初は南京からの通信はきわめて困難でありましたので、新聞通信員の無電を利用し、南京入城直後、外国人の安否を上海に報告しました」また、福田官補に続いて南京に入った福井淳総領事代理は、総領事館に復帰すると外務省に電報を打ち、その電報を石射猪太郎東亜局長が読んでいます。これらから大使館員による打電は行われていたのであり、ボイントンが話したことは間違いです。
そもそもボイントンは上海にいた宣教師で、南京の様子がわからないばかりか、日本大使館員とやり取りはできません。そのような大の言葉が認定されているのです。憲兵の数が少なかったから不法行為が起こったと検察官は主張しましたが、数についてはこのような経緯がありました。『日本憲兵正史』にこうあります。「十二月十七日に松井軍司令官の入城に随行した憲兵は、憲兵長以下わずか十七名であった。これは国際都市上海などの大市街に対し、相当数の憲兵を残置する必要があったこと、途中の占領都市に対しても、若干名の憲兵を配置した結果である」また、『日本憲兵外史』はこう記述しています。
位置No.1477
「昭和十二年十二月十ーー日、中支那派遣憲兵隊の動員下令となって、 (中略 )一月八日から各憲兵隊本部に向かって出発した。こうして中支那派遣憲兵隊司令部は上海に、南京憲兵隊、蘇州憲兵隊、杭州憲兵隊、そして上海憲兵隊の開設となったわけである」このような事実から当初は一七名でしたが、ただちに四〇名に増やされたのです。ただし、それは中支那派遣憲兵隊のことで、上海派遣軍と第十軍には憲兵隊がありました。
中支那方面軍は南京攻略にあたり、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を示しましたが、その五にはこうあります。
「軍隊と同時に多数の憲兵補助憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ」また、松井司令官は、南京城に入った日、日本軍の不法行為の報告を受けましたが、それは上海派遣軍や第十軍の憲兵隊長からのもので、ただちに即時厳格な調査と処罰を命じています。
つまり、南京を攻撃するときの日本軍は憲兵隊を持ち、一〇〇名から二〇〇名ほどの憲兵が任務を遂行していたのです。
そのほかの点について弁護側は検察側の主張に反論しませんでしたが、それについて検察側と弁護側はまったく違った解釈をしていたからです。
裁判が始まる前の一九四六 (昭和二十一 )年四月、武藤章中支那方面軍参謀副長が尋問を受けました。そのとき武藤章は、松井軍司令官が城内に入って塚田攻参謀長から窃盗、殺人、殴打、強姦事件が起きていることを知らされたと述べると、そのような事件は多数挙げられていませんでしたかと質問されました。それに対して武藤参謀副長はこう答えました。
「報告には多数の事件は挙げられていませんでした」
同じ尋問官による尋問が二日後に行われましたが、そこでも同じような質問と答えがや
位置No.1493
「これらの事件は数千、数百の事例を挙げて報告されたか、それともいかなる数字が挙げられていたか「ー〇ないし二〇の事件が報告されていました」 (中略 )
「貴下はー九三八年当時、貴軍の情報部に何かおかしいところがあるに違いないと感じませんでしたか、南京事件で貴殿はわずかー〇かーー〇の出来事しか知っておらないのに、米人の書いた『南京掠奪』という本には一般人全部を挙げているのはどうしたわけでしょう」
「前に述べました通り、私の聞いたのは一〇ないしーー〇にすぎません」松井軍司令官以下、一〇か二〇の事件が起こった報告を受け、効果的な方策をとろうとしていました。認めていたのは一〇かーー〇の事件を知っていたということです。しかし検察は、その数を数百、数千と見なし、効果的な方策はとられていなかったと見なし、追及していたのです。
尋問の段階で松井司令官以下が否定しても、検察の見方は変わりませんでした。開廷するとサトン検察官は、上海派遣軍法務官の塚本浩次大佐に向かって、さまざまな事件を挙げ、それらを聞いたことはないか、それらを裁いたか、と繰り返し、当然のことながら塚本法務官はすべて、さようなことはございません、と答え、最後にこんなやり取りがなされました。
サトン「私がいままであなたにお尋ねしましたところの二、三の質問、それから証拠として示したところのいくつかの事実に関して、私が示唆したところによってもなおあなたは、昭和十二年十二月から昭和十三年一月に至る間において、あなたが取り扱った事件はわずか一〇ばかりであるとおつしやるのですか」
塚本「その報告と私が扱った事件のー〇の間に、なんら関係はないと思います。別のこ
位置No.1508
とだと思います」
このように塚本部長もー〇ほどの事件を認めていましたが、検察側は最後まで膨大な件数と見なして追及していたのです。
召還を不法行為の証拠と見なされる
同じようなことは日本の間でも起こりました。国際委員会から日本の外交官に提出されていた文書について、日高参事官はこう証言していました。「これらの大多数は伝聞でありましたが、総領事館では事実をいちいち調査する暇もなかったため、一応そのままこれを東京外務省に報告 (後略 )」上海にいた伊藤述史無任所公使は検察官から、外交団や外国の新聞記者から受けた情報を確かめようとしたことがありますか、と質問されて、「確かめようとはしませんでした」
と答えました。
文書を南京で受け取っていた福田篤泰官補は、東京裁判で証言することはありませんでしたが、のちにこう話しています。
「当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。『いま、上海路何号で十歳ぐらいの少女が五人の日本兵に強姦されている』、あるいは『八十歳ぐらいの老婆が強姦された』等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。『ちよつと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか』と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。
位置No.1522
また、『下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった』と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷参謀と米国大使館員を連れていくと、その形跡はない。とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た」文書の中身とはこういったものでしたが、日高参事官や伊藤無任所公使はそのまま外務省に送りました。
受け取った外務省は、これらをどう見なしたのでしょうか。東亜局長の石射猪太郎は、法廷で弁護人とこのようなやり取りをしています。「報告をあなたが南京から受け取りましたときに、あなたおよび外務省は、それらの報告を、その額面通りに受け入れましたか」「大部分事実であろうと思いました」実情をまったく知らない石射局長は、文書を信じ、大きい事件と受け取ったのです。そしてどうしたかといえば、「私は陸軍省軍務局第一課長に対し、右アトロシテーズ (残虐行為 )問題を提起し、いやしくも聖戦と称し皇軍と称する戦争においてこれはあまりにひどい、さっそく厳重措置することを切実に申し入れた」さらに石射局長は、事件を報道する海外の新聞を目にすると局内に ^した、とも証言しました。多数の不法行為が起きていると思っているからです。同じような情報を耳にした松井司令官が、正しく報道されるようアーベンド記者と二度も会談を持ったのとまったく違っていました。松井大将以下は、海外の新聞報道を信じておらず、外務省と陸軍省で議題となつていることも知りませんでした。石射局長の証言により、検察側は日本が多数の不法行為を知っていたとますます確信したでしょう。
南京は陥落しましたが、和平はならず、日本は長期戦を覚悟することになりました。陸軍は兵力の拡充に努めることになり、それが済む七月まで新たな作戦を行わないと決めます。
位置No.1538
ー九三八 (昭和十三 )年二月十六日の御前会議で正式に決定され、十八日、中支那方面軍などの戦闘序列が解かれ、新たに中支那派遣軍の戦闘序列が発令されました。中支那方面軍は七個師団と二個支隊からなっていましたが、新たな中支那派遣軍は六個師団となり、司令部も上海から南京に移すことになりました。派遣の主旨は変わり、任務を終えた松井大将は召還され、教育総監の畑俊六大将と代わります。召集されていた多くの予備役将校も解除となりました。
これが司令官交代の実情で、アーベンドの証言などはまったく間違ったものでしたが、法廷は、不法行為のため松井大将は召還されたとし、召還しながら日本政府は処罰しなかった、と判定したのです。
それまで法廷は検察側の主張をすべて取り入れていましたから、石射局長の証言がなくとも結果は同じだったでしょう。
ここでも検察の誤った主張がすべて取り入れられ、日本が事件を知っていたとされたのです。
位置No.1578
南京戦の戦死傷者は上海戦の一〇分のー以下
中国軍は、首都が狙われた場合、上海から南京までの三〇〇キロメートルの間のうちで、常熟と蘇州を結ぶ線、続いて江陰と無錫を結ぶ線で戦い、南京が近くになれば、南京城から十数キロメートルのところにある外周陣地、さらに城壁から数キロメートルの複廓陣地で南京城を防衛する作戦を立て、ー九三四 (昭和九 )年から陣地構築に着手していました。しかし、上海で敗れた中国軍は潰走状態となり、途中で踏みとどまるまでいきませんでした。多くは南京まで退却し、南京城を取り巻く二つの陣地で日本軍を迎えることとなりました。
二つの陣地のうち要となるのは最後の複廓陣地で、五つの陣地からなっています。なかでも紫金山と雨花台が重要な陣地と見なされていました。
その雨花台と紫金山を攻めることになったのは、上海戦の最後に加わった第六師団、第百十四師団、第十六師団です。
第六師団と第百十四師団は、杭州湾から上陸しましたが、そのときすでに中国軍は上海から退却しはじめており、犠牲者はわずかでした。
第十六師団は、白卯江に上陸し、それほど犠牲者を出すこともなく、上海から退却する中国軍を追撃して南京まで進みました。
位置No.1594
損傷の少ない第六師団、第百十四師団、第十六師団が、最も堅固な陣地攻略に向かったのであり、手に負えなくなった部隊が南京を攻めたわけではなかったのです。
南京攻略が命ぜられたのは十二月一日ですが、このとき、南京を攻略できるのは年が明けた一月中旬ではないかと予想する声が上がりました。しかし日本軍の追撃は速く、攻略命令から九日目、 M江の歩兵第三十六連隊は、外周陣地を破り、複廓陣地の間隙を縫い、光華門前まで進みました。
翌十日には、ほかの部隊も紫金山と雨花台へ攻撃を始めました。そして十三日夜、南京陥落と発表されましたから、攻略命令からわずか十三日で南京は陥落し、予想よりーカ月も早かったことになります。
この南京の戦いで、日本軍は戦死者八〇〇名、負傷者三〇〇〇名、合わせて死傷者三八〇〇名を出しました。
南京戦に先立つ上海戦は三カ月かかり、戦死傷者は四万一四〇〇余名に達したので、南京戦は上海戦と比べて、日数で七分の一、戦死傷者では一〇分の一以下でした。逆上して不法行為を起こすほど、南京戦では苦戦したわけではなかったのです。
南京戦で最も多くの犠牲を払ったのは、真つ先に城門を攻めた第九師団の 鯖江歩兵第三十六連隊です。光華門を攻撃しはじめると、中国側では中央軍の第百五十六師と蔣介石直系の第八十七師が応戦、城門を挟んだ戦いは五日間続き、歩兵第三十六連隊では二五七名の戦死者を出しました。複廓陣地の雨花台と紫金山にはそれぞれ七個連隊と四個連隊が攻撃に向かい、雨花台を攻めた高崎の歩兵第百十五連隊では七二名の戦死者、松本の歩兵第百五十連隊は六六名の戦死者を出し、紫金山を攻めた歩兵第三十三連隊は四〇人の戦死者でしたから、鯖江歩兵第三十六連隊の犠牲者は突出していました。
位置No.1611
十三日朝、舗江歩兵第三十六連隊は城壁上まで進みました。光華門攻撃に加わった山砲兵第九連隊の大内義秀少尉は法廷でこう証言しています。
「十二月十三日朝、私たちは光華門の城壁を占領しましたが、入城は許されませんでした。憲兵と一部の小部隊が入城しました。同夜、私の部隊は湯水鎮へ引き返しました」
舗江歩兵第三十六連隊は、このとき山砲兵第九連隊とともに城外に退き、戦場掃除などに従事しました。代わって城内に入ったのは敦賀の歩兵第十九連隊です。
それでは、ファルケンハウゼン中将が言うように、日本軍の体質が原因なのでしょうか。南京戦の前に上海戦がありました。
南京戦の翌年五月に徐州戦、十月に漢口戦が行われました。
上海戦では八個師団と一個支隊と一個連隊が戦いました。
南京戦は五個師団と二個連隊が戦いました。
徐州作戦には八個師団と二個支隊が参加、三個師団が徐州まで進みました。漢口作戦は九個師団と三個支隊が戦い、一個師団と三個支隊が武漢に入りました。
上海も、徐州も、漢口も、南京より多くの日本軍が戦いました。徐州まで進んだ三個師団は南京を攻略した部隊であり、武漢まで入った一個師団も南京を攻略した部隊です。もし日本軍の体質が不法行為の原因というのなら、上海でも、徐州でも、漢口でも、不法行為は起きたはずです。上海事件、徐州事件、漢口事件というように。
事件の原因は日本軍が存在したという妄言
盧溝橋事件が起こると、第二十師団が応急動員されました。ー九三七 (昭和十二 )年七月二十九日、内地師団を派遣するとき、第五、第六、第十師団が動員されました。八月十三日、上海に派遣するときは、第三、第十一師団を動員すると決まりました。
位置No.1627
すべて常設師団です。増派すると決まったとき、台湾支隊と第九師団のほかに常設師団を送る余裕がなくなり、第百一師団と第十三師団が編成されて送られました。第十軍でも第十八師団と第百十四師団が編成されました。これらはいわゆる特設師団です。一般に、常設師団の軍紀は特設師団より厳しい、と言われます。常設師団の兵隊は二十一、二歳が中心で、まだ青年であり、真面目です。特設師団は二十代半ばから三十代にかけた壮年で編成され、すでに結婚して世間慣れしている者が多い。そういったことが大きな理由と言われます。南京攻略で奮戦した第九師団、第六師団、第十六師団は常設師団です。南京攻略には特設師団である第十三師団の一部と第百十四師団も加わりますが、四分の三は軍紀に厳しい常設師団でした。
支那事変が始まったとき、日本には一七個師団の常設師団がありました。やがて特設師団が編成されはじめ、支那事変なかばの一九三九 (昭和十四 )年には四一個師団、対米戦が始まるころには五一個師団まで増えました。
もし日本軍の体質で南京事件が起きたというのなら、同様な事件はときとともに頻発したでしょう。戦争末期にはさらに起こっていたことになります。これらからも、ファルケンハウゼンの指摘は的を射たものではないとわかります。南京事件が事実とするなら、誰かが命令を下したはずです。命令がなければこのような大規模な事件は起こりません。東京裁判の判決によれば、南京の至るところで起こっていたから、最高司令官の松井石根大将が命令を下したことになります。
松井石根は、若いときから支那に強い関心を持っていました。陸軍大学校を首席で卒業し、恒例によってフランスに派遣されましたが、支那での勤務を強く望んでいました。孫文の大アジア主義に共鳴し、日中は手を携えて欧米に当たるべきとの信念を持ち、中央の要職を務めていたときに大亜細亜協会を設立し、予備役に退くとその会頭に就いて運動を進めました。
支那と手を携えてと考えていっそうの運動を進めているとき軍司令官に任命されましたから、上海に赴くことになった運命に松井石根は戸惑いを覚えました。支那と戦うことになった松井石根は、敗れた支那兵の待遇を思いやり、戦禍に遭う支那の住民を心配し、徴発の際には万全を期するよう気を配ったのです。支那人のことを第一に考えていました。
ー九三八 (昭和十三 )年二月、松井石根は凱旋帰国しますが、上海で倒れた支那兵のことを思いやりました。やがて松井は、日中双方の倒れた兵士を弔うため、上海の激戦地である大場鎮の土を取りよせ、それと瀬戸の上とで観音像をつくることを思い立ちました。軍司令部付として従軍した岡田尚に命じて上海から上を取りよせ、観音像に興亜観音と名づけ、熱海の伊豆山に堂を建立して祀りました。松井石根は住まいを伊豆山に移し、開眼式を行ったー九四〇 (昭和十五 )年春からこの堂へのお参りを日課とし、戦後、南京事件の責任者として出頭する命令を受けるまで続けました。