一、あたいは殺されない
「あ、お早う、好いご機嫌らしいね。」
「こんなよいお天気なのに、誰だって機嫌好くしていなきゃ悪いわ、おじさまも、さばさばしたお顔でいらっしゃる。」
「ううん、いや、ちがう。」
「じゃ何だ。言ってご覧。」
「うん。」
「このあいだね、小説の雑誌巻頭にあたいの絵をおかきになったでしょう。」
「頼まれて生れてはじめて絵というものを画いて見たんだよ。本当は絵だか何だか判らないがね。」
「あたいにも、そのうち一枚画いていただきたいわ。」
「絵は画こうとしたって却々、画けるものではないよ。君から見ると似ているかどうかね。」
「よく似ていたわ、それでね、あれから後に、一週間程してから、雑誌社からお礼のお金が書留で着いたでしょう。」
「これも生れてはじめて画料というものを貰ったのだが、それがどうかしたかね。」
「文章が一枚半ついていてね、合わせて一万円貰った。」
「おじさまはそれをわたくしにね、正直に仰有らなかったわね。幾ら来たってこともね。」
「金魚にお金の話をしたって、どうにもならないじゃないの。」
「何だか僕もそんな気がしないでも、なかったんだけど、」
「でね、おじさま、それについてね。」
「もうお金、だいぶ、おつかいになった?」
「半分つかったけれど、まだある。」
「何に半分、おつかいになったの。」
「千五百円の玉露を百目買ったし、雉子羽根のはたきを一本と、赤玉チーズを一個買った、……」
「あたいには、とうとう、何も買ってくださらなかったわね。」
「君なんかのことは、まるで、わすれていた。」
「そういうことになるかね。きみを見て画いただけで、それがきみのお金になるものかな。」
「あたい、いつ下さるかと、窓の方を毎日のぞいていたのよ、で、ね、あと半分のお金、いただきたいわ。」
「一たいきみは何を買うつもりなの、」
「お友達の金魚をたくさん買ってほしいのよ。」
「あ、そうか、遊び友達がいるんだね、それは気がつかなかった。」
「それから金魚餌という箱入の餌がほしいわ、かがみのついている、美しい箱なのよ。」
「かがみっていうのは錫の紙の事だろう、あれはかがみになりますかね。」
「水にぬれるとぴかぴかして、かがみみたいになるわよ、それからね、めだかをたくさん買うの。」
「そんなめだかどうするんだ。」
「齧ってもかじっても、目高の尾というものは、すぐ、生えてくるものよ、だから、可哀そうなことないわ。」 「めだかの尾はたとえば、どんなあじがする。」
「おじさま、早くお金出してよ、あたいのお金なのに、出ししぶらないでよ。早くさ。」 「じゃ、千円札で五枚、それに剰ったこまかいのが、百円札と銀貨を合わせて総計五千九百円になる。」
「ええ、これで決算済みよ、それからついでに、外にもっと細かいのもいただきたいわ。」
「銅貨で重くていいか、」
「かまいません、それからおじさま、あたい、歯のお医者様に行きたいんですから、別にその方のお金も頂戴。」
「金魚が歯医者にかかるなんて聞いたこともないが、歯がどう痛いの。」
「このあいだね、慌てて、石を噛んじゃった、がりがりって。」
「あわてるからだよ、たべものは一遍そっと口にさわって見てから、食べるようにするんだね、歯はいたむの。」 「痛いわ、骨にひびくわ。」
「骨にひびくって、骨にって背骨の骨のことか。」
「お背中の骨なのよ、おじさま、いま骨の話をしてからおじさまの顔色が、へんに変って来たわね、それ、どうしたのよ。」
「僕はまだ金魚の骨というものを見たことがないんだ、金魚に背骨があるかないかも昔からわすれていた。人間で金魚の骨を見た人が何人いるかしら、全くたいへんなことを忘れていたものだ。」
「どうしてそんな、あたい達の骨が見たいの。」
「ぐにゃぐにゃだと仰有るの。」
「あんな針みたいな骨があるなんて、きみの顔を見ていたって、想像もつかないことだからね。」
「人間は金魚の骨だけは見たくないって、皆さんがそう言っているんだよ。可哀そうだから。」
「あたいもまだ見たことないわ、じゃ、あたい、そろそろお友達を買いにいってくるわよ、黒いのや斑なのや、それから、めだかも。」
「行って来たまえ、自動車に気をつけてね。」
「ええ、お金持になれて、とても今日は嬉しいわ。」
「ハンド・バッグを掏られないように気をつけておいで。」
「はい、行ってまいります。あ、いいお天気だなあ。」
「水道の水は飲むなよ、げえになるからなあ。」
「はい、すぐかえるから、おじさま、温和しくして待っていらっしゃい。」
「よしよし、……」
「おじさまの好きな、いしごろも、買って来てあげるわ。」
「赤いのや青いのが雑っている、あれでいいんでしょう。どのくらいいります。」
「そうね、三百円くらいいるな、子供に頒けてやることもあるからね。」
「そのお金、先刻いただいた分とは、べつにいただかなきゃ。」
「そうか、ほら、これでいいね。なかなか抜からないね、きみは。」
「だってあたい、いろいろ考えてつかうから、おじさまの金米糖のお金は出せないわ。石ごろもの分は、あたいのおみやげにするけど。」
「有難う、たすかった。」
「道くさをしないで、ちゃんと、お八ツまでにかえって来るんだよ。」
「はい、」
「うなぎや鯖を店さきで見ていると、さかなやさんに捕まって、売られてしまうぜ。」
「はい、はい。」
「ただいま、――あ、怖かった、も、ちょっとで誘拐されるところだった。」
「どうした、真青な顔をしているじゃないか。ふるえてさ、きみらしくもないね。」
「おじさま、お水を一杯ちょうだい、こんな怖い事はじめてよ、呼吸もつけないわ。」
「ほら、水だ、ぐっと飲んで気を落ちつけて、何が怖かったかということを話すんだよ。」
「あ、美味しい、も少し頂戴。先刻のクロロフィルの入った水よりか、よっぽど、美味しい。」
「何だクロロフィルなんて。」
「あたいね、おじさま、途中で思い出して丸ビルまで急に行ってみたのよ、お天気は上々だしね。」
「丸ビルまでか、驚いたやつだな、そんな派手な恰好をして。」
「此間からあたい、歯が痛い痛いって言っていたでしょう、だから雨がふるとこまると思って、七階のバトラー歯科医院まで思い切って行っちゃった。」
「彼処はきみたちの行く歯科ではないよ、きみたちは蟹科に行けばたくさんなんだ、」 「失礼なおじさまね、蟹科は抜歯ばかりで、歯の技術はてんでだめなのよ、おじさまは何時も歯がお悪いくせに、何もごぞんじないんだ。」
「道理で永いお使いだと思っていたんだ。だってバトラーさんは時間ぎめだから、ふいに行っても療治してもらえない筈じゃないか、幾日の何時という時間を貰わなければならないんだが、」
「そこがあたいの腕のあるところなのよ、ちゃんと療治していただいて、疼きもとうに治っちゃった。」
「どうしてそんなウマイことをしたんだ。」
「黒の眼鏡をかけた、英語のぺらぺらのおばちゃんがいらっしゃるでしょう。」
「あ、いるいる、きょうもいたかい。」
「だからあたい、おばちゃんに歯がいたくて死にそうだと、たのんじゃったの、半分泣顔して見せてやったの。」
「そしたら、」
「そしたらセンセイのところにあたいを連れて行って、この子の歯の中に蟹の子がいるそうですから、つまみ出してくださいと頼んでくださいました。センセイはピンセットの先に、とうとう十二疋の蟹の卵を捜して、つまみ出して下すったわよ。」 「十二疋とはたいへん居たものだな。」
「そして一応抜歯してから、歯は入歯しなければならないんですって。」
「金魚のくせに入歯するなんて変じゃないか。」
「あたいの歯は二千円くらいだけど、こんどのおじさまの歯は金と白金とをまぜてつくるんですって、でなきゃ、どんなに叮嚀に作っても、おじさまの癇癪玉は、いつも入歯まで噛みくだいておしまいになりますと、センセイがおわらいになって仰有っていらっしたわ。」
「かかるだろうなあ。」
「そっと聞いたら八万六千円もかかるそうだわ、だから、あたい、べそを掻いたような顔をして見せて、着いたばかりの原稿料の小切手を置いて来たわ、これ内金でございます、なんしろおじさまは貧乏ですからと申し上げといたわ。」
「よけいなことは言わないものだ。」
「それからあたい、治療の椅子に腰かけていると、うがい器にどんな仕掛になっているのでしょうか、漂白硝子器に水がくるくる舞いをして、しじゅう清潔なお水が走って流れているんです、それを見ていると先刻からずっと、喉が乾いて尾も頭もからからになっていることに気づいたの、我慢がならなくなって、助手さんの隙を見てね、コップの水を飲んでしまった。飲んでから気がついて青くなっちゃった、あれみな水道の水なんですもの、だから慌てて口をもがもがしたけれど、もう遅かったわ、げえになりそうになっちゃったんです。」 「だから出しなにあんなに、水道の水は飲むなと、言っておいたじゃないか。」
「あたい、すぐ助手さんを呼んだわ、そしてこのコップの水を飲んだんですけれど、これ、毒でしょうかしらときくと、いいえ、召し上ってもかまいはしませんと仰有ったから、でも、金魚には水道の水は毒でしょうと聞きなおすと、そうね、金魚にもお毒ということはないでしょう、どうして金魚の事なぞいまどき仰有るんですかと言われたので、あたい、すっかり赧くなって家にたくさん金魚を飼っているものですから、ここにあがっても、いまごろどうしているかと心配でならないんでございますというと、助手さんは何てお優しいお嬢様でしょうというの、おじさま、あたいも外に出ると大したお嬢様になって見えるらしいわね、驚いちゃったでしょう。」 「おじさまもそう思ってくれるかナ、嬉しいナ、ところで助手さんはこのお水にクロロフィルというお薬がはいっているから、金魚の鱗にも効く場合がありますと仰有ったので、あたい、もう少し頂いたわ、クロロフィルって青い藻みたいに、美しい色をしているお薬なんです。」 「僕の胃腸薬なんかにも、クロロフィルが入っていて、散薬だけれど、まるで緑色の薬なんだ。」
「おじさま、こんどそのお薬少し頂かしてね。」
「何にするの。」
「お腹があまり大きくふくれているから、服むとなおらないかと思うの。」
「その内頒けてあげるよ、併し金魚に効くかどうか、金魚屋さんによく聞いてからにするといいよ。いまどきの薬の事だから、間違うとたいへんな失敗になるからね。」 「それはよく聞いて頂かないとこまるわね。金魚屋さんて金魚のお医者様みたいだから、何でも聞くと知っていらっしゃるわ。」
「うっかり薬なぞ服まない方がいいよ。」
「それから療治をして控え室に戻ると、大きな西洋人が二人待ち合わせていて、二人とも睡っていたわ、あたいみたいに赤い顔をしていらっしったものですから、あたいまで睡くなっちゃった。あたい、このごろね、赤い雑誌の表紙の色を見ただけでも、すぐ睡気がして来るのよ。」
「金魚というものは泳ぎながら、みんな何時でも睡っているんだ、口をとじたままでね。」
「それからタクシーに乗ったら、燐寸一つ貰いました。お釣銭を貰おうとしたら、手を握られちゃった。言い分が気障じゃないの、お嬢さまのおてては何ておつめたいんですと来た、あたい怖くなって、さよならと言って降りたわ。」 「さよならなんて言わなくともいいんだよ、手をにぎられたくせに。」
「それからがたいへんなことが始まったのよ。」
「どう、たいへんなことっていうのは。」
「新橋で省線に乗ったでしょう、乗るとすぐあたいの肩に手をかけて、何処に行って来たんだと、青っぽい服を着た若い男の人がいうの、あたい、こんなにちんぴらでしょう、肩にらくに手を置けるんですもの、丸ビルの歯医者さんまで行ったんだと答えたら、どちらに帰るんだといったから、大森までというと、僕も大森に行くんだから下車したら五分間つきあってくれというの、あたい、きゅうに怖くなっちゃって、その人のそばを離れて後ろ側の吊り皮にかわっちゃったの、そのとき、つい失礼しますと言っちゃった。」 「ばかだなあ、そんな時に失礼しますなんて言う奴があるかね。それからどうしたの。」
「そしたら次の駅につくと、すぐあたいのそばにまた寄って来て、たくさん乗客のいる中でも平気でいうんです。歯医者にかかっているなら度たび通わなければならないから、この次はいつ行くんだ、その日をいってくれれば、丸ビルで待ち合わそうじゃないかというんです。あたい、もうその人がとても急に怖くなって了った。こんな人のことをぐれんたいというんだなと思い、がたがたハンド・バッグを提げている手がふるえて来たわ。」 「一さい口を利かなかった方がよかったのだ、きみは一々返事をしたことがおぼこに見えたんだよ、何処までもきみはこどもくさいからね。」
「それでね、大森に降りたら、白木屋の入口で待っていろというの、あたい、もう黙って返事をしなかったわ。そしたら、待つか待たないか返事をしろと迫るの、あたい、もう誰かにたすけて貰おうかと思ったけど、例の肩の手がはなれないんですもの、だから、こんどは出口の方に行ってみると、すぐついて来たわ、そのついて来方があんまり早いもんだから、乗客は誰もふしぎそうに見る者は一人もいないんです。硝子戸に顔をくっつけていると、硝子が曇っちゃって、あたいの心と同じ色になっちゃった。」 「それから男はどうしたい。」
「大森に着く前にもう一ぺん念を押していったわ、白木屋の前に来なかったら、ただじゃ置かないと、省線に張り込んでいるからそう思えと言ったわ、あたい、下車するとバスの停留場まで趨ったわ、うしろ向くと捕まえられると思ってがたがた趨った。」 「人もあろうに僕の家の者にも、そんな男の手が伸びるなんて、あきれたもんだ。まだ怖いかね。」
「おじさまにお話したら、ブルブルが取れちゃった、あたい、そんなにうきうきして見えるかしら、それが気になるのよ。」
「きみの少女くさいところを狙ったのだろうが、この狙いは、ねらい損なんだね、きみなんかのように少女くさいのは却々手にのりそうで、いざとなると、ぴょんと跳ね上ってしまって草臥れもうけさ。」 「名前なんか出すのはよしなさい、言わないのが、りこうなんだ。」
「じゃ、あたい、りこうだったわね。」
「自然にふせぐ手をきみは知っていて、それを自分で考えないでやっていたことは、やはり身をまもることを知っていた訳なんだ。」
「おじさま、」
「あたい、お腹がきゅうに空いちゃった。お茶一杯飲まないでいたんですもの。」
「では麩でもおあがり。」
「じゃ乾干をおたべ。」
「あ、美味しい、おじさま、井戸水を汲んで来てちょうだい、柔らかい水にじっと、少時、かがみ込んで見たいわ。」 「よしよし、ほらおいしい井戸水だよ。」
「藻も少しいれてよ、古いのは棄てちゃって、ごわごわした生きのいいのがいいわ。あ、わすれていた。どう、この歯は立派でしょう。」
「あってもなくてもいいのに、おしゃれだね、きみは、」
「だって晩にはしくしくと何時までも疼いて、どうにも手がつけられないんですもの、おじさまがそんなに冷淡なこと仰有ると、化けて出るわよ。」
「金魚が化けられるものかい。」
「あたいね、ときどきね、死んだら、も一度化けてもいいからお逢いしたいわ、どんなお顔をしていらっしゃるか見たいんですもの。あたい達の命ってみじかいでしょう、だから化けられたら、何時か化けて出てみたいと思うわよ。」
「入れて大事にしてやるよ、暖かい日向にね。そしてわかさぎの乾干をやるよ。」
「鏡のついた箱入の餌もね、こまかく叮嚀にかなづちで砕いて、」
「溝川のみじんこ・みみずもさがして歩くよ、きみはあれが好きだから。」
「あ、嬉しい。おじさまは、何時も、しんせつだから好きだわ、弱っちゃった、また好きになっちゃった、あたいって誰でもすぐ好きになるんだもん、好きにならないように気をつけていながら、ほんのちょっとの間に好きになるんだもの。此間ね、あたいのお友達が男の人に、一日じゅうお手紙を書いていたわ、人が好きになるということは愉しいことのなかでも、一等愉しいことでございます。人が人を好きになることほど、うれしいという言葉が突きとめられることがございません、好きという扉を何枚ひらいて行っても、それは好きでつくり上げられている、お家のようなものなんです、と、そのかたの文章がうまくて、後のほうでしめくくりをこんなふうにつけてありました。わたくし旅行先でお菓子を沢山買って、それを旅館に持ってかえって眺めていると、誰が最初にお菓子を作ることを考えたのでしょうと、そんな莫迦みたいなことも書いてございました。」 「きみはいくつになる。」
「あたい、生れて三年経っているの、だから、こんなにからだが大きいの。」
「人間でいうと二十歳くらいかな、頭なぞがっちりしているね。」
「逢ってみたいの。」
「きれいな人かどうか、それが気がかりなのさ。」
「それはそれはきれいな人よ。せいは低いけど。」
「何をしている人なんだ。」
「或る雑誌の編集をしている方、海棠夫人という名前がついている方なの。」 「その手紙を貰った相手は誰。」
「歌舞伎俳優だったのだけれど、いまは、たまにしか出ない名のある俳優なのね、おじさまはきっと名前をいえばお判りでしょうけど、あたい、お友達から口どめされているから、言えないわ。けどね、人を好くということは愉しいことでございますというのは、とても、たまらないよい言葉ね、人を好くということは、おじさま、言ってごらん遊ばせ。」
「いやだよ、いい年をしてさ。」
「ね、一ぺんこっきりでいいから言って見て頂戴、男の人の口からそれを聞いてみたいんだもの、人を好くということは愉しいことでございます、……」
「人を好くということは、……」
「人を好くということは、……」
「また吃ったわね、ずっと一気につづけるんだと言っているじゃないの。」
「人を好くということは、……」
「すぐ、あとを言いつづけるのよ。判らない方ね。」
「何て年よりのくせにはにかみやだろう、もう言わなくてもいいわよ。」
「慍ったね、じゃ言うよ、人を好くということは人間の持つ一等すぐれた感情でございます。」
「ちがうわね、勝手に言葉を作ってはだめじゃないの、人を好くということは、ほら、早くさ。」
「人を好くということは、……」
「何てじれったいおじさまでしょう、それで小説家だの何のって可笑しいわよ、あたいの言葉の終らない前に続けるのよ、人を好くということは、なのよ、あら、黙っちゃった。」
「…………」
「言わないの、早くさ。」
「僕はだめだ、きみひとりで其処で何度でも言ってくれ、僕はばかばかしくなるばかりだ。」
「あたいね、おじさまみたいなお年よりきらいになっちゃった、幾らいってもテンポが鈍くて、じれじれして噛みつきたいくらいだわ。」
「金魚に噛みつかれたって痛かないよ、いくらでも噛みつくがいいよ。」
「あんなことを言っている、あたいだって一生懸命に噛みついたら、おじさまの痩せた頬のにくなんか、咬みとるわよ。」
「怖いね、大きな眼をして。」
「おじさまと遊んでやらなかったら困るでしょう。呼んだって返事しないからね。」
「じゃ、先刻のことをもう一遍くり返していうのよ、ね、いいこと、人を好くということは、……」
「おじさま、早く起きて。」
「すぐ起きるよ、石が着いたらしいね。」
「どんどん着いているわよ、表に出て見て驚いちゃった。道ばたは通れないくらい積み上げて行ったわ。」
「まだまだ運んでくるよ、そうだな、今日一杯運搬はかかるね。」
「あんなに石をお買いになって、何をなさるおつもりなの。」
「あれで石の塀をつくるんだよ、石の塀は燃えないからね。」
「此間の火事でお懲りになったのね、あんとき、あたいくらいある大きい火の粉がどんどん降って来たわね、あたい、水の底から見ていると、しゅっと水に落ちた火の粉で、あたいのいるところの水まで熱くなっちゃった。おじさまが来なかったら水が熱く沸いて了って、死んでいたかも知れないわ。」
「平ったくなって水底でふるえていたね、眼だけ大きく開けて、」
「でも呼んだら来てくだすって、たすかったわ、あたい、あれからずっと眼が焼けたようにへんになっているのよ。」
「まるで二疋ずつ重なってふくれて見えた程だ、金魚に火事と来たら、それ以上の赤い色ないね、だからあの晩からおじさんは考え続けたのさ。」
「石の塀をおつくりになることでしょう。」
「今までの竹の胡麻穂だと燐寸一本で、火が一面にひろがるからね、まるで家の周囲に燃えやすい焚附を置いていたようなものなんだ。」
「火事があったら小母さまの足が立たないから、なかなか逃げ出せないし、あたいは小ちゃいからお手伝いができないもん、その前にあたいなんかあぶられて死んじまっているかも知れないわ、おじさまはどうして小母さまを背負い出すおつもりなの。」
「そこで塀は石につくりかえることに考えついたんだ。おじさんが死んだ後に垣根を結い返す必要もないしね、胡麻穂の垣根ってお金がかかるんだ、息子や娘がいてもみんなお金がとれないから、垣根をやり代えることも、一年遅れになり五年八年と遅れてボロ家にボロの垣根になってしまう、きみはおじさんの大事な友達だけれど、それはただの金魚というぴかぴかのおさかなに過ぎないしね。」
「何の役にも立たないわね、ただ、おじさまの精神的なパトロンみたいにはなっているけど、一緒に寝ることもできないわね。」
「生意気なことは、誰よりも生意気だし、……」
「おじさま、早く起きてよ。」
「いますぐ。」
「おじさま、あれ何て石なの、まぶしいくらい白っぽくて、かさかさして眼に痛いの。」
「あれは大谷石という石なの、あれで家のまわりをぐるっと包んで、火事があっても今までのように燃える心配がないだろう。七段くらい積み上げればね。」
「まるでお城みたいになるわね、気がついてよかったわ。」
「とうに気がついていたけれど、おじさんには、そんなお金がいままでになかったのだよ。」
「じゃ、いまあるの。」
「このごろのおじさんはね、やっと石塀くらい作れるようになった。人間は一生かかっていながら、垣根も結えない時が続いた訳だね。」
「おじさまは何でも一生かかってなさる事はしているわね、お庭、やきもの、お仕事、みんな晩成なのね。」
「なまいき言うな。」
「おじさま、いろいろお物入りばかりつづくけれど、あたい、おねがいが一つございますけれど、とうから考えていたんだけれど、こんどはついでに作っていただきたいんです。」
「どういう頼みか、いってごらん。」
「あたいのお家もついでにつくってほしいの、あの石でまわりを囲うて広びろとしたお池みたいにしていただいて、真中にりゅうとした噴水をしかけて、噴き水がしたしたといちにち、山あいの滝のようにしぶくお家がほしいんです、その中であたい、おじさまに扇の孔雀のように泳いでお見せすることも出来るし、おじさまの好きな大口を開けてうたうことも出来るわ。」
「だんだんぜいたくになってくるね、作って上げるよ、そのつもりで黒い石もたくさん買って置いたんだ。」
「あ、嬉しい、あたい、白い石ばかりかと思って内々不服だったけれど、黒い石もお買いになっていたの、とても嬉しいわ、だからおじさまは気が利いていて好きだというのよ、尾のところにお触りになってもいいわ、くすぐったくないよう、そよろそよろとお触りになるのよ。おじさま、尾にのめのめのものがあるでしょう、あれをお舐めになると、あんまりあまくはないけど、とてもおいしいわよ、しごいてお取りになってもいいわよ。」
「そんなことしたら、きみは泳げなくなるじゃないか。」
「すぐ作れるもの、いくらでも次からのめのめのあぶらが湧いて出てくるわ。あたい、あののめのめの沢山湧いている日が一等うれしい日なのよ、こう言っているまにぐんぐん湧いてくるわ。」
「尾の附根が光り出したね、ちょいと失礼だけれど、お尋ねしますがね、慍り出したらいけないよ。」
「なあに、」
「一たい金魚のお臀って何処にあるのかね。」
「あるわよ、附根からちょっと上の方なのよ。」
「ちっとも美しくないじゃないか、すぼっとしているだけだね。」
「金魚はお腹が派手だから、お臀のかわりになるのよ。」
「そうかい、人間では一等お臀というものが美しいんだよ、お臀に夕栄えがあたってそれがだんだんに消えてゆく景色なんて、とても世界じゅうをさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな、人はそのために人も殺すし自殺もするんだが、全くお臀のうえには、いつだって生き物は一疋もいないし、草一本だって生えていない穏かさだからね、僕の友達がね、あのお臀の上で首を縊りたいというやつがいたが、全く死場所ではああいうつるつるてんの、ゴクラクみたいな処はないね。」
「おじさま、大きな声でそんなこと仰有ってはずかしくなるじゃないの、おじさまなぞは、お臀のことなぞ一生見ていても、見ていない振りしていらっしゃるものよ、たとえ人がお臀のことを仰有っても、横向いて知らん顔をしていてこそ紳士なのよ。」
「そうはゆかんよ、夕栄えは死ぬまでかがやかしいからね、それがお臀にあたっていたら、言語に絶する美しさだからね。」
「おばかさん、そんなこと平気で仰有るなら、あたい、もう遊んであげないわよ。人間も金魚もいつもきちんとしたことばを口にすべきだわ。お臀って自分で見られないように、後ろ側についていて、人間の中でも一生自分のお臀を見ないで死ぬ人さえあるのに、おじさまったらその秘密がわからないの、どんな映画だってお臀だけは写さないわよ。」
「このあいだ『殿方ごめんあそばせ』って映画で、ブリジット・バルドーがお臀を見せるところがあったよ。可愛いお臀だった、もっとも、はなはだ瞬間的のものではあったがね。」
「おじさま、いやなところばかり見ていらっしゃるのね、あたい、おじさまと遊ぶのがまたいやになっちゃった。」
「人間でも金魚でも果物でも、円いというところが凡て一等美しいんだよ、十くらいの女の子がおしっこをしているのを外で見かけると、吃驚していくらおじさまでも顔を反けたくなるね、自分というものを知らないでしていることが、それを全部知っている側から見ると、純潔以前の野蛮な感情で自分自身でどやしつけられるんだ。それが余りに不意に見なければならない状態に置かれた自分を責めたい気分だね、こまるね、そんな時はね。」
「あたいね、おじさまがコドモのおしっこしているのを見てさえ、自分のどこかに響かして考えようとするのは、不倖だとおもうわ、誰もそこまで考えをつきこんでいる人いないわよ。」
「そうかな、厭らしい事くらい反省を促してくるものがない筈だが、人間の子供のすることなぞ、一遍におじさまを遣附けてくるんだ。いわば不倖かも知れないね、この不倖を不倖に感じない人間に、たまたま破廉恥な犯罪がうまれてくるんだね、今までにそのために何十人かの少女が殺されたかわからないね。おじさまだって自分を怖い処に立たせて見て、どれだけの分量で自分に厭らしさがあるかを調べているんだが、何時も恐ろしい結果がヘビのように首をあげてくるね、裁判官という人達はどれだけ他人をしらべていながら、犯罪者から教えられ又救われているか判らないね。だから人間は自分にあたえられたお臀ばかりを見つめくらしていさえすれば、他に苦情がおこらないんだ。たいがいの人間はそうしているんだよ。」
「おじさまは? おじさまだってまだお臀が見たいんでしょう。」
「そりゃ見たいさ。併し問題が夕栄えの景色から外したお臀のことになると、だんだん声が低くなるし大ぴらには言えなくなるね、おじさんの僅かばかり受けた教育がそうさせてくるんだね、人間に書物とか教養があたえられたことは、僕一人にとっても大へんな感謝に値するわけだね。」
「おじさまはそんなに永い間生きていらっして、何一等怖かったの、一生持てあましたことは何なの。」
「僕自身の性慾のことだね、こいつのためには実に困り抜いた、こいつの附き纏うたところでは、月も山の景色もなかったね、人間の美しさばかりが眼にはいって来て、それと自分とがつねに無関係だったことに、いよいよ美しいものと離れることが出来なかったね、やれるだけはやって見たがだめだった、何も貰えなかった、貰ったものは美しいものと無関係であったということだった、それがおじさんにたあいのない小説類を書かせたのだ、小説の中でおじさんはたくさんの愛人を持ち、たくさんの人を不倖にもしてみた。」
「おじさま、いい考えがうかんだのよ、おじさんとあたいのことをね、こい人同士にして見たらどうかしら、可笑しいかしら、誰も見ていないし誰も考えもしないことだもの。」
「そういう場合もあるだろうね、乞食のように生きてゆくひとは、犬や猫と生涯をおくることもあるからな、犬や猫は寝ていると女くさくなってゆくけれど、金魚とは寝ることが出来ないしキスも出来はしない、ただ、きみの言葉を僕がつくることによってきみを人間なみに扱えるだけだが、まアそれでもいいね、きみと恋仲になってもいいや、僕には美しすぎた過ぎ者かも知れないけれど、瞳は大きいしお腹だけはデブちゃんだけれどね。」
「あたいね、おじさまのお腹のうえをちょろちょろ泳いでいってあげるし、あんよのふとももの上にも乗ってあげてもいいわ、お背中からのぼって髪の中にもぐりこんで、顔にも泳いでいって、おくちのところにしばらくとまっていてもいいのよ、そしたらおじさま、キスが出来るじゃないの、あたい、大きい眼を一杯にひらいて唇をうんとひらくわ、あたいの唇は大きいし、のめのめがあるし、ちからもあるわよ。」
「しまいに過ってきみを呑みこんで了ったらどうなる、それが一大事件だ。」
「そしたらお腹の中をひとまわりして、また上唇のうえにもどって出てくるわよ、金魚ですもの、ねばり気のあるところでは、あたいのからだはどんなに小さくも伸び縮みすることが出来るし、早く泳ぐこともできるのよ。どう、お腹のうえを泳いであげたら、おじさまは擽ったくなり嬉しくなるでしょう。」
「そうね面白いだろうね、けど、擽ったくてかなわないだろう、ぴちぴち跳ねられたら?」
「そっとして上げるわ、慎重に。」
「なにぶん、よろしく頼むよ。」
「では恋人になるわね。」
「何て呼んだらいいんだ、名前からつけなきゃ。」
「赤い井のなかの赤子、赤井赤子ってのはどう。」
「いいね、あか子、赤井赤子というのはちょっと変っていて、呼びいいね。ではそう呼ぶことにしよう。」
「それからね、いろいろ物を買っていただかなくちゃ、あたい、何一つ持っていないんですもの、頸飾だの、時計だの、時計はきん色をしたぴかぴかしたのね、それから指環もいるけど靴だの洋服だの、……」
「きみがそんな物を着たり嵌めたりしたら、お化けみたいじゃないか。」
「お化けでも何でもいいわよ、買っていただけるの。」
「買うよ、おじさんの買物を控えめにすれば、何でも買える。」
「も一つ肝腎なことは毎月小遣どれくらい貰えるの、それを決めてかからなきゃ、それが一等肝腎なことだと思うわ。」
「そうだな、千円もあればいいんじゃないか。」
「千円ぽっちで何か買えるとお思いになるの、どんなにすくなくとも五万円いただかなくちゃ暮せないわよ。」
「五万円という金はおじさんの小説一つ書いたお金の高だよ、それだけ毎月きみに上げたらおじさんこそ、どう暮していいか判らない、まアせいぜい一万円くらいだよ、それで尠なかったら恋人はやめだ。」
「こまるわ、一万円じゃ。じゃね、クリイムだのクチベニのお金は時々べつの雑費として出していただけます?」
「それは随時に出すことにするよ、現金では一万円以上はとても出せないよ、金魚のくせに金取ってどうするつもりなの。」
「じゃ一万円でいいわ、ふふ、一万円の恋人ね、あたい、はたらくことにするわ、縁日の金魚盥に出てゆくわ。」
「そしてどうする。」
「買って行った人の家から、晩方にはおじさまの家に直ぐ逃げてもどるわ、あたいは一疋で三百円が懸値のないおねだんだから、逃げ出してはまた別の金魚屋に売られて、またおじさまの処に戻って来るわ。」
「見附かったらどうする、殺されるぜ。」
「人間って吝だから三百円もする金魚は決して殺しはしないわよ、それに、皆さんは金魚だけはどんな残酷屋さんでも、殺すもんですか、金魚は生涯可愛がられることしか、皆さんから貰ってないもの、金魚を見て怒る人もまた憎む人もいないわ、金魚は愛されているだけなのよ、おじさまも、それだけは頭に入れて置いてあたいをいじめたり、怒らせたりしちゃだめよ。」
「判った、きみはえらい金魚だ、娼婦であるが心理学者でもある金魚だ。」
「昔、支那の皇帝がお池で金魚の衣裳を着けた女達を泳がせたことがあるの、それ以来金魚は擬人法をならうことが出来たし、水の中でうんこをすることも覚えたの。」
「じゃ何かい、そのお池で誰かがうんこをもらした女がいたの。」
「そうらしいわ、金魚唐史に出ているわ、支那から泳いで来たというのはでたらめだわね。きっと商人達がもうけるためにお船で持って来たのよ、おじさま、もう、そろそろ寝ましょうよ、今夜はあたいの初夜だから大事にして頂戴。」
「大事にしてあげるよ、おじさんも人間の女たちがもう相手にしてくれないので、とうとう金魚と寝ることになったが、おもえばハカナイ世の中に変ったものだ、トシヲトルということは謙遜なこと夥しいね、ここへおいで、髪をといてあげよう。」
「これは美しい毛布ね。」
「タータン・チェックでイギリスの兵隊さんのスカートなんだよ、きみに持って来いの模様だね。」
「これ頂戴、」
「何にするの、厚ぼったくて着られはしないじゃないか。」
「大丈夫、スカートにいたします、まあ、なぜお笑いになるの。」
「だってきみがスカートをはいたら、どうなる、」
「見ていらっしゃい、ちゃんと作ってお見せするから。どう、あたい、つめたいからだをしているでしょう。ほら、ここがお腹なのよ。」
「お、冷たい。」
「むかしね、おじさま、」
「また秦の始皇が大きな鯉と寝て風邪をひいたという話でしょう、それなら何遍も聴いたよ、それでなきゃ唐の姫達が一疋ずつ金魚を口にふくんで、皇帝の穏座を飾ったという話だろう、うまいことを考えついたものだね。金魚を咥えて伺候するなんてね。」
「むかしむかしね、おじさま。」
「ふむ。」
「あたい達の眼があんまり動かないので、瞬きをして表情を多様にするための眼のお医者様がいたのよ、いまの眼を大きくする病院みたいなところなのよ、その眼医者がたいへん流行っちゃって、みんな、眼の治療に行ったけれど、後でよく気がつくと、眼ん玉が引っくり返っただけで依然として、金魚の眼はまたたくことが出来ないで、じっとしているじゃないの。」
「金魚の眼はいやに動かない眼だな。」
「だから紅鱗瞳と競い、瞳孔人これを見ずという悲しい詩があるくらいだわ、おじさま、そんなに尾っぽをいじくっちゃだめ、いたいわよ、尾っぽはね、根元のほうから先の方に向けて、そっと撫でおろすようにしないと、弱い扇だからすぐ裂けるわよ、そう、そんなふうに水のさわるように撫でるの、なんともいえない触りぐあいでしょう、世界じゅうにこんなゆめみたいなものないでしょう。」
「先ず絶無といっていいね、人間なら舌というところだ。」
「あとでお腹の掃除もしてあげるわ。」
「何処に行くの、じっとしていたまえ、」
「背中のようすを見てから、胸のうえに登ってと、まるでお山が続いているみたいね。人間一人をつかまえてしらべて見ると、とても、大きいくじらみたいなものだわね。」
「寝たまえ、おしゃべりはいい加減にして寝たまえ。」
「ええ。おじさまは明日は何をなさるおつもり。」
「明日はね、石の塀をつくるんだ、職人衆の来る前に起きて、指図をしたり形をきめなければならないんで忙しいんだよ。」
「あたい、どうしていたらいいの。」
「あたいは一人で遊んでいたらいいんだ。目高を呑みこんだり吐き出したりしていればいいよ。」
「おじさまは遊んでくれないの、つまんないな。」
「きみと遊んでばかりいられないよ、そのほかに仕事もあるんだ。」
「また小説でしょう、あたいのことなぞ書いちゃいやよ、書く人と書かれる人のちがいは、大変なちがいだから書かないでよ、」
「ところがね、おじさんは此間から金魚はなぜあんなみじかい生涯を生きなければならないかと、そんな事をしじゅう、考え続けているんだ、たとえば目高は人間にしたしまないが、金魚はあしおとがすると、すぐ集まってくる、そこに目高と金魚の遠近が人類とむすびついて来る。」
「つまんない事を仰有るわね、それより、此方を向いて頂戴、ことわざに曰く作家老いて悲境に陥るということがあるが、おじさまもその部類ね、かくごはしていた、なんて仰有るけど、こうみるとすでにふつうの人の百歳の年齢に足をふみいれているわね、足はがさがさして鹿の足のごとく、お背中はやっと張っているだけね、遠い遠い百歳がもうやって来ているわね、七十歳でもう百歳の人、あるだけを書き、あるだけを叩き売った心のぼろを提げている踵のヤブれた人、そんなひとがさ、あたいのような若いのと一緒に寝るのは、百歳にして恋を得たと矜がましく仰有っても、いいくらいよ、あたいはもう金魚じゃないわね、一枚の渋紙同様のおじさまだって生きていらっしゃるんだもの、一たい何処にいのちがあるのよ、いのちの在るところを教えていただきたいわ。」
「おじさんはおじさんを考えてみても、いのちを知るのに理窟を感じてだめだが、金魚を見ていると却っていのちの状態が判る。ひねり潰せばわけもない命のあわれさを覚えるが、おじさん自身のいのちをさぐる時には、大論文を書かなければならない面倒さがある。」
「論文なんていやね。そしてあたいが麩をたべているときに、いのちを感じると仰有りたいんでしょう。あたいの生きていることは、おじさまを困らせている時ばかりだ。」
「スーツを買え靴を買えという時か。」
「そのほかにもある。追々わかってくるわ。しまいにおじさまはあたいを煩さがって、何処かに捨てに行きやしないかと思うことがあるわ。でなきゃ殺してしまうかの二つだわ。」
「きみが木々の間を泳ぎまわりおじさんに蹤いているあいだ、おじさんはきみを大事にしているんだ、きみは何処にでも匿すことが出来るし邪魔にはならない。」
「おじさま、何時あたいが木の間に泳いでいるのをごらんになったの、」
「明るい日の中の梢に何だろうと見ていると、きみの泳いでいるすがたが見えていた。池を見るときみはいなかったのだ。きみは恐ろしい金魚だ、木の間をつたい、木の下におりて行ったが、いまでも本当の事だとはおもえないくらいだ。」
「あたいだってあれは本当のことに思えないわ。おじさま、仰向いて寝てよ、あたい、お腹のうえだと、とてもお話しよいのよ。」
「おじさんの方からは、顔がよく見えないじゃないか。」
「これでいい?」
「あ、それでいい、だいぶ、からだが温まって来たね、お腹がふにゃふにゃしてきたじゃないか。」
「お腹が空いてきたのよ、お水と餌とを持って来て頂戴、なんか大きな鉢のようなものに水を一杯入れてきてね、時どき、ざんぶりとはいらないと呼吸ぐるしいわ、ついでに揚タオルもね、早くね。」
「はい、はい。」
「おじさまはしんせつね、美味しいお水ね、冷蔵庫から取り出して来たのでしょう、おう冷たい、あ、色が変るくらい冷たいわね。」
「はい、干鱈。」
「こまかく刻んでくだすったわ、塩ぱくていい気持、おじさま、して。」
「キスかい。」
「あたいのは冷たいけれど、のめっとしていいでしょう、何の匂いがするか知っていらっしゃる。空と水の匂いよ、おじさま、もう一遍して。」
「君の口も人間の口も、その大きさからは大したちがいはないね、こりこりしていて妙なキスだね。」
「だからおじさまも口を小さくすぼめてするのよ、そう、じっとしていてね、それでいいわ、ではお寝みなさいまし。」