第3章 生物学というエンタプライズ: 人間工学から社会生物学に至る性、意識、利潤 / 猿・女・サイボーグ
要約
自然の歴史/自然史[ナチュラル・ヒストリー]ーーそして、そこから派生した生物諸科学ーーは、欠乏という観点にもとづくディシプリンであった。自然ーー人間という自然、そして人間の本性を含む自然ーーは、欠乏と競争という基盤の下での、そして、資本主義と家父長制のためのライフサイエンスの構築過程を通じて、理論化され、展開されてきたのである。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイ p.132 l8
生物学はバチクソ資本主義と家父長制まみれ。
それでも科学の実践に関与していかねばならない(p.132 後3)というのがハラウェイの考え。
ロバート・ヤーキーズーー人間工学のパイロットプラントとしての霊長類研究所
ロバート・ヤーキーズ
システム工学と投資管理の科学ーー社会生物学(p.113-130)
市場
機械
結論ーーフェミニズム- 社会主義の立場にたった科学は可能か(p.131-3
疑問
社会生物学におけるエンジニアリングによる再設計の限界は、価値の私的領有や、それに必然的に付随する、まさに目的論としての支配の必要性といった資本主義の原動力によって設定される。p.130の1行目
※再設計の限界:明確な制約や条件を設定して期待する出力の範囲や内容を制限すること。
かさ.iconこの文章は、「私的財産」と「支配関係(特定の人や組織だけが生産における手段を占有できる)を維持する」ことが資本主義を成立させるための条件として必要で、それらが社会生物学におけるエンジニアリングの限界(設定条件)を設定する、という理解でOK?
かさ.icon「価値の私的領有」を限界として設定するということは、私的財産を絶対的な条件として予め設定するという意味?
かさ.icon「目的論としての支配の必要性」を限界として設定するということは、支配関係(序章で言及されていたように人種、植民地主義、階級、ジェンダー、セクシュアリティによる支配)を固定的な条件として設定するという意味?
性役割を遺伝的素因によって合理化する方が、「人間」が「自然」を支配するという社会生物学に基本的なエンジニアリングの論理に比べれば、根源的性差別主義の度合いはまだしも低い。p.130の4行目
かさ.icon「人間」が「自然」を支配するという社会生物学に基本的なエンジニアリングの論理は、どの点が根源的性差別の度合いが高いのか。説明がもう少し欲しい・・・。
社会生物学の論法は人間社会に適用された場合には、職業の分離や優位性のヒエラルキー、極端な人種差別主義、さらには、性に基づいた社会において遺伝子の競争の汚い面をコントロールする上での支配の「必要性」といったものの論拠にいともたやすくすり替わってしまう。p.130の7行目
皮肉なことではあるが、社会生物学は、おそらく、かつての心理生物学をはじめとする有機的機能主義の生物学ほどに、あからさまな性差別や人種差別と結びついてはいないだろう。p.130の10行目
(主張をまとめると・・・)
社会生物学は「人間」が「自然」を支配するという基本的なエンジニアリングの論理をとっている。
社会生物学の論理の方が、性役割を遺伝的素因によって合理化するよりも、「根源的な」性差別の度合いが高い。
社会生物学の論法は、性差別だけでなく、職業差別、優位性のヒエラルキー(人間における身分差の正当化?)、極端な人種差別主義、支配の「必要性」の論拠に容易にすり替わる。
かさ.icon「かつての心理生物学をはじめとする有機的機能主義の生物学ほどに、あからさまな性差別や人種差別と結びついてはいないだろう」というのは何となく分かる。でも「あからさまな差別」とは結びついていないけど、「根源的差別」の度合いが高いというのが、どのあたりの話か分かりにくい。
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感想