9911_アクセシブル(すべての人が持つ障害)
私が初めて造らせていただいた、バリアフリー住宅、このOさんのお宅には、度々お伺いしています。先日お伺いしたときに気づいた、「大切な何か」について、記事に書きながら、自分の考えを整理していきたいと思いました。
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このお住まいは、1995年1月に竣工しました。その当時、「バリアフリー」という言葉は、まだ聞かれませんでした。私が初めて対面した車いすユーザーは、このOさんなのです。アクセシブル( 2017.09.17) hr.icon
Oさん宅に、久しぶりにお伺いしました。リビングで談笑していると、
玄関の方から「ピンポン」と、チャイムの音が鳴りました。
Oさんが玄関に出向くと、郵便局の方でした。
荷物だとわかると、Oさんは一旦リビングに戻り、ハンコを取り出し、
また玄関へ行って、荷物を受け取りました。
『ごめんなさいね』と、Oさんはすぐに、リビングに戻ってきました。
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取り立てる程でもない場面ですが、その時に気づいたのです。
「あっ、これがバリアフリー住宅なのだ」と。
この一連の流れの中では、Oさんが健常者だとしても、全く同じはずでした。
そこには、「障害者」と「健常者」とを、分かつものは何もありませんでした。
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反対に、このOさんの住まいが、バリアフリー住宅ではなかったらどうなのか。
• 玄関の上がり框の段差で、玄関ドアの鍵を開けることができない。
• 幅の狭いドアでは、玄関に行くのに何回も切り返しをしなくてはならない。
• そのために、来客を待たせることになってしまう。
そのような住まいでの生活では、Oさんは「障害者」になってしまいます。
また、来客にベンチに座ってもらえば、来客の目線と車いすの目線は同じになる。
この小さな「こころのバリアフリー」も、大切にしたかったことでした。
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大滝建築事務所では、障害の有無に関わらず、ひとりの住まいてさんとして、
お迎えするだけです。それ以下でも、それ以上でもありません。
「常に最善を尽くしたい」と考えていますが、新たな疑問が湧いてきました... 。
「そもそも、そういう私自身は健常者なのだろうか... 」
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メイスが亡くなる直前の、最後のスピーチに、その答えが見つかりました。
題されたスピーチで、「ユニバーサルデザイン」について定義する場面です。
ユニバーサルデザイン(Universal Design)
ユニバーサルデザインは、広くユーザーを定義します。
特に障害を持つ人々ではなく、すべての人々に焦点を当てています。
「誰もが障害を持っている」という考えを前提としています。
私たちは、それを認めたいかどうかに関わらず、
年齢を重ねて能力を失うにつれて、
私たちは皆、障害を持つようになります。
すべての人が持つ障害(disability)
ここで注目したいのは、メイスが「disability(障害)」のある人と、それ以外の人を分けようとする、世間の常識を打ち破ろうとしていたことです。
実はユニバーサルデザインの根底にあるのは、すべての人が「障害のある人」なのだという考え方であることを語りました。
なぜなら、人は誰でも年齢を重ね、それまでできたことができなくなっていくという「dis-ability(能力の低下や喪失)」を経験しながら生きるものだからです。
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「私自身は健常者なのだろうか」という自問に対しての答えは、
なるほど、「私も障害のある人」だということなのですね。
「障害」の定義は、その人にあるのではなく、
その人の周りの環境によって、決定されるものでしかない。
そして、それは『変えられる』ものである。
私のバリアフリーの原点となったOさんから教わったことを、
その後に続く住まいてさんから教わったことを、
さらに続く住まいてさんに伝えていくことが、
私の役割だと考えるようになりました。
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