9462_『定年になるまで43年間、働きあげました』ハンセン病体験講話
国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)で開催された、「ハンセン病体験講話」に、私は初めて参加しました。第28回の講話者は、坂田啓子さんでした。お話し頂いたことを全て記事にするのは控えますが、記憶が鮮明な内に、まとめておきたくなりました。
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私は最近、ドリアン助川さんの小説『あん』を読んだことがきっかけで、ハンセン病のことを知りたくなりました。
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ハンセン病資料館では、多磨全生園入所者や退所者をお招きして、その方が生きてこられた体験をお話しいただく講話を、不定期に開催しているそうです。私は初めて参加しました。
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お話し頂いた坂田さんは、ハンセン病回復者です。69才と聞き、驚きました。私と15才しか違わなかったからです。ハンセン病になった方は、もっと年長者だと思っていたからです。
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坂田さんは、9人兄弟の上から2番目、貧しい生活だったそうですが、周りもみなそうだったから、とりわけ自分だけが辛いとは、思わなかったそうです。
坂田さんの当時の暮らしぶりに、私が既視感を感じたのは、父から聞かされていた、父の幼少期の頃とそっくりだったからでした。
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『私、今でも、本名のカミングアウトしていません』今でも本名は内緒にしていて、「坂田啓子」は仮名なのだそうです。
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自分のためだけでなく、残された家族を差別から守るために、自分の過去を隠すこと、自分を偽ること。そこだけをみても、どれほどの苦悩なのか、私は共感することができませんでした。
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10歳の時に発病し、家族と切り離され、熊本の療養所に入所し、17才の時に全生園に転所したのは、学ぶためだったそうです。ここ全生学園で、小学6年から勉強し直したそうです。
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21才の時に全生園から、外部の学校に通い始め、結婚をし、事務の仕事をすることになったそうです。坂田さんは、指を動かしにくい後遺症があるため、仕事の中では、お札を数える仕事があったそうで、その時は、「冷や汗がでる」ほど、難儀したとのことでした。
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坂田さんの『定年になるまで43年間、働きあげました』との言葉は、とても自信に満ちている様に、私には聞こえました。そして同様に、「母をハグし、看取ることができた」の言葉にも、深い感銘を受けました。
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ここの公園に、「全生学園」という学校が建っていたそうです。
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1931年に校舎が建てられた当時は、大人の入所者が先生役を務め、1953年に公立小中学校の、分教室となった以降は、東村山町から、先生が派遣される様になったそうです。
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坂田さんのお話しにもあった、「出発(たびだち)の碑」です。1979年、最後の卒業生たちが、旅たつと廃校となったそうです。卒業生たちが建てた記念碑は、静かでかつ、力強いものでした。
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