伊藤計劃
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第一部
濡れ仕事屋
蔑みとともに「濡れ仕事屋ウェットワークス」と呼ばれることがあった。この名前は冷戦時代から暗殺仕事をさす隠語としてジョン・ル・カレやグレアム・グリーンの小説で使われてきた。映画『キャリー』の有名なポスターを思い浮かべてもらえるといいかもしれない。いじめっ子たちに頭から豚の血をぶっ掛けられて立ちすくむシシー・スペイセクのかわいそうな姿。ぼくらの仕事(の一部)が濡れ仕事と呼ばれているのはそういうことで、違うのはぼくらの場合、まみれているのが人の血だということ。 そうした「濡れ仕事屋ウェットワークス」は「不確定要素を極力減らすと同時に、その不確定要素が実際に発動した際の即応性を高める一環として、個々の隊員が対象の人物像を組み上げる」スキルを習得させられる。「それはつまり、殺す相手の姿と人生とを生々しく想像することに他ならない。相手に愛情を抱けるほどリアルに想像してから、殺す。最悪のサド趣味」なのである。 そんな悪趣味がなんらトラウマにならないのは、ひとえに戦闘適応感情調整のおかげだ。戦闘前に行われるカウンセリングと脳医学的処置によって、ぼくらは自分の感情や倫理を戦闘用にコンフィグする。そうすることでぼくたちは、任務と自分の倫理を器用に切り離すことができる。オーウェルなら二重思考と呼んだかもしれないそれを、テクノロジーが可能にしてくれたというわけだ。 下記のような「シンプルな世界観」に浸透しているとも表現する。
心の健康を保つためには、深く考えないのがいちばんだし、そのためにはシンプルなイデオロギーに主体を明け渡すがラクチンだ。~正しいから正しいというトートロジーを受け入れろ。
主人公の力能
「漢字、かっこいいですよね」 「読めない文字は情報というよりも意匠だからね」 「読めないからこそカッコいい、てことですか」「そういう部分もあるな。理解できない文化は排斥の対象になりやすいのと同じくらい、崇拝や美化の対象になりやすいんだよ。エキゾチック、とか、オリエンタル、とかいう言葉のもつクールさは、理解できない文化的コードから発しているというべきだね」 「異国の文字は、ことばでありながらことばでない、と。それはテキスタイルと同じようなパターンや図像に近いわけですね」 「意味情報を消失しているわけだからね―正確に言うなら、ぼくらが意味情報を取得できない、ということだが。異国の文字でスクラブルをやったら、できあがったボードはほとんどアートにしか見えないだろうな」~「お前はことばにフェティシュがあるようね。言語愛者、とでも言うべきかしら」 そうティーンエイジャーのころ母親に言われたことがある。意識したことはなかったけれど、たしかにぼくはことばが好きだった。ことばが持つ力が好きだった。ことばが人を変化させるのが、不気味で面白くてしょうがなかった。ことばによって怒る人、ことばによって泣き出す人、ことばが人間の感情を、行動を左右し、ときに支配すらしてしまうのが興味深かった。ぼくには、ことばが単なるコミュニケーションのツールには見えなかった。見えなかった、というのは、ぼくはことば、リアルな手触りをもつ実体ある存在として感じていたからだ。ぼくにはことばが、人と人とのあいだに漂う関係性の網ではなく、人を規定し、人を拘束する実体として見えていた。数学者が数式に実在を感じるように。虚数をリアルに思い描けるように。物理学者はことばで思考するのではない、という。アインシュタインは相対性理論をことばや数式として得たのではない、というのは有名な話だ。この天才はそれをイメージとして得た。ことばや理論的な構成がまったく関与しない純粋な情景として、アインシュタインは相対性理論を得た、と語っている。 ぼくは、ことばそのものがイメージとして感じられる。ことばそのものを情景として思い描く。この感覚を他人に説明するのはむつかしい。要するにこれは、ぼくの現実を感じる感覚がどこに付着しているかという問題だからだ。何をリアルと感じるかは、実は個々の脳によってかなり違う。ローマ人は味と色彩を論じない、という言葉があるのは、そういうわけだ。ぼくがことばを実体としてイメージできるように、「国家」や「民族」という抽象を現実としてイメージできる人々がいる。こうして国家のために人を殺す仕事に就いていながら、ぼくにはその種の想像力が悲しいほど欠けていた。ことばに対する現実感が強すぎるせいか、国家も民族も共同体も「ことば」としか思えなかった。ことばとして見えてはいても。生活として生々しく想像できるよう代物ではない。
母の死
そして、そんなアジアの記憶から帰ってくると、ぼくの母親はチューブに繋がれ、たっぷりの薬品とナノマシンによって生かされるままになっており、医者はその処置の継続の可否を訊ねてきている。外見はどこも欠損しておらず、まっさらな状態の母親が、清潔なベッドに横たわり、無意識でぼくの決断を望んでいた。生きているようにも見えるけれど、それは体内に注入された働き者の分子機械たちのおかげにすぎなかった。ぼくたちが負傷した際に施される、戦闘継続性技術と同じものだ。 真っ白な病院の、真っ白な静寂のなかで、ぼくは処置の中断に同意するファイルをさし出される。延命措置の終了を承認しますか、という問いに、はい、というぼく自身の言葉と、 拇印による認証。そして意思を欠いた、それが再び宿ることのない肉体から分子機械群は撤退し、母は速やかに死を得る。 とはいえ、母親は本当に死んでいたのだろうか。そもそも、その決断をくだす前に死んでいなかったと、どうして言えるのだろう。 どこからが生で、どこからが死なのか。二十世紀のおわりから、医療技術の発展とともに それは曖昧になるいっぽうだったけれど、半世紀以上ものあいだ、人類はそれに対し目を閉じ耳を塞ぎ、そうした問題はほかの問題と同じく先送りにしてきたのだった。
それゆえ「2」の冒頭で下記のように言うのだ。
ぼくの母親を殺したのはぼくのことばだ。 たっぷりの銃とたっぷりの弾丸で、ぼくはたくさんの人間を殺してきたけれど、ぼくの母親を殺したのは他ならぬぼく自身で、銃も弾丸もいらなかった。はい、というこの名前。そのふたつがそろったとき、ぼくの母親は死んだ。
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第二部
屍者の帝国
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ハーモニー
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虐殺器官
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