ハンス・ヨナス
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第十三章 グノーシス主義、実存主義、ニヒリズム
現代ニヒリズムの根幹
二世代以上も前にニーチェは、ニヒリズムという「すべての訪問客のうちでもっとも気味の悪いもの」が「戸口に立っている」と言った。とこうするうちにこの訪問客はなかに上がりこみ、もはや訪問客でなくなってしまった。そして哲学に関していえば、実存主義はそれとともに生きようと試みている。このようなものと共に生きるとは危機のうちに生きることである。そしてこの危機の端緒は、現代人の精神的状況が形をとりはじめた十七世紀にまで溯る。この状況を規定するさまざまの要因の一つに、パスカルがその戦慄的な合意において最初に直面し、彼の強烈な雄弁をもって説いたものがある。それは人間の孤独、現代の宇宙論が群想する自然的宇宙のなかの人間の孤独だ。「私の知らぬ、また私を知らぬ無限に広い空間のなかに投げ込まれ、私は恐れおののく」。諸空間は「私を知らない」。 宇宙の空間と時間の圧倒的な無限性よりも、その桁外れの量的な巨大さ、この広大なひろがりのなかにおかれた人間の小ささよりも、その「沈黙」、つまり人間の思いにたいする宇宙の無関心―一切の人間的な事どもが不条理にも宇宙のなかで演じられねばならないにもかかわらず、宇宙が人間的な事どもをまったくあずかり知らないということ―にこそ事物の総体[万有=宇宙]のなかでの人間のまったき孤独があるのだ。 ではなぜ意志なき、人格なき宇宙に投げ込まれた我々はパスカルがいう如くの「まったき孤独」があると言われるのか。それは上述されたように「現代の宇宙論が群想する自然的宇宙のなかの人間の孤独」であることを理解せねばならなう。
神が君臨し、意味が全存在に浸透した宇宙では、あまねく存在で意味を分有していると言える。したがって、全存在と人間は接続され、互いに意味論的に有機的であり、相互に文脈を共有していた。部分である人間と部分である他の存在すべてが合一することで、全を成すのである。しかし、「神なき人間の悲惨」、すなわち意味なき宇宙の「総体の部分、自然の一片としての人間」は、あらゆる存在から断絶され、分離し、浮遊しており、合一は成されない。なぜならば、人間とは唯一思考するのだ。こうして意味は宇宙的なものから個人的なものとなり、「価値はもはや客観的実在のヴィジョンのなかに見られるのではなく、価値づけの行為によって、その行為そのものによって措定される」。これこそヨナスが「ニーチェ的局面」と呼ぶものである。「こうして人間が全自然より優越する所以のもの、彼を他から区別する徴である精神は、もはや人間の存在を存在者全体により緊密に統合するという結果をもたらさず、反対に、彼自身とそれ以外の全存在とのあいだの架橋不能な深淵を表わすものとなる」。なぜならば意味や価値が内在化されることは、自らが意味ある主体を獲得することであり、それは同時に外在する意味なき宇宙と大いなる断絶を産みだし、我々を「異邦人」とする。我々は意味なき宇宙の「その一部分であるにもかかわらず」思考し、意味を有するのだ。したがって、我々はなにとも意味を分有することはなく、全存在と価値が有機的に統合されることもなく、しかしてしっかりとこの宇宙に部分として存在する。この異質性、生まれを間違え、迷いこんだアヒルこそ人間であり、ゆえに我々は皆異邦人なのである。 これが人間の状態である。私自身のロゴスがそこに内在するロゴスとの同族性を感じることのできた宇宙、人間がそのなかに場所をもっていたような全体の秩序は去ったのだ。その場所は今やまったくの偶然として現われる。しかもそれは暴力的な偶然である。「私は恐れおののき、そしていぶかしく思う」―とパスカルは続ける「私はなにゆえここにいて、あそこにいないのか。なぜなら私があそこでなくてここ、あの時でなくて今いなければならないという理由はどこにもないからである」。宇宙が人間の自然的故郷と見なされていたかぎり、すなわち世界が「秩序」と理解されていたかぎり、「ここ」には常に理由があった。しかしパスカルは、「人間がおのれに立ち帰り、(...)迷い込んでいる自分自身を見出す」べき「自然の辺鄙な片隅」について、また「人間が宿るこの小さな土―すなわちこの(可視的な)宇宙―」について語る。そこでのわれわれの実存の絶対的偶然性は、この体系から一切の人間的意味を奪い、われわれ自身を理解するための参照系となりうるものを何ひとつ残さない。 よってここに存在論的意味づけの個人化が起きる。
この状況のなかには、故郷喪失、孤独、恐怖といった気分より以上のものがある。自然の無関心はまた自然が目的というものにまったく無縁であることを意味している。自然的因果性の体系から目的論が放逐されたことによって、自然そのものが無目的となり、人間が提出しうるどんな目的にたいしても認可をあたえるということがなくなったのである。たとえばコペルニクスの宇宙のような、内在的な存在階層をいた宇宙は、価値に存在論的な支えをあたえない。そのなかで自己が価値と意味を求めようとすれば、その探求はそっくり自己自身に投げ返される。意味はもはや見出されるのではなく「付与される」のである。価値はもはや客観的実在のヴィジョンのなかに見られるのではなく、価値づけの行為によって、その行為そのものによって措定される。目的は意志の関数であり、したがって私自身の創造物にほかならない。意志がヴィジョンにとってかわり、行為の時間性が「善それ自体」の永遠性を奪する。これはヨーロッパ的ニヒリズムが表面に現われてくる状況、そのニーチェ的局面である。いまや人間は独りきりである。(...)そうニーチェは語る(『孤独』のなかで)。そして彼はこの詩をこう結ぶ。「故郷をもたざる者は、災なるかな!」 グノーシスの被投性
ここにグノーシス主義と実存主義を繋げる存在が隠れている。ただし「グノーシスの二元論と実存主義の二元論のあいだには基本的な差異があることも看過してはならない。グノーシス的人間は、敵意ある、反神的な、したがって反人間的な自然のなかに投げ込まれるが、現代人は無関心な自然のなかに投げ込まれている。後者の場合にのみ、絶対的な真空、真に底無しの深淵がある。グノーシス派は、敵意あるもの、ダイモーン的なものを依然として擬人的に考えている」。しかし、グノーシス主義も実存主義にも通ずるはこの世界に投げ込まれた存在、「異邦性」である。
何ものかのなかに「投げ込まれた」という言葉がわれわれの注意を惹く。この語は実存主義の文献のなかですでにおなじみとなったものだからだ。これはパスカルの「無限に広い空間のなかに投げ込まれ」を、あるいはハイデガーの被投性 (Geworfenheit)を想起させる。後者はやはり「投げ込まれてあること」という意味であって、ハイデガーにとって現存在(Dasein)、すなわち実存の自己経験の根本性格をなしている。この語句は、私の見るところ、元来グノーシス的なものである。それはマンダ数の文献のなかに定型的なかたちで頻出する―命は世界のなかに、光は闇のなかに、そして魂は肉体のなかに投げ込まれる。それは私に加えられた始源的な暴力、私を現在いるところに置き、現在あるところのものにした暴力を表現している。それはまた私が作ったのでなく、私がその法に属するわけでもない現在のこの世界のなかに、私が否応なしに出現しなければならないという受動性をも表わしている。だが投げるというこのイメージはまた、このようにして始められた実存の全体に力動的な性格をもあたえる。われわれの公式においてこの力動性は、ある目的へと急ぎ向かうというイメージのなかに示される。世界へと放り出された命とは、それ自身を前方へ、未来へと向かって投企する一種の弾道である。 本書はクルト・ルドルフがハンス・ヨナスの先駆的グノーシス研究にもとづいて、これをナグ・ハマディ文書の解読を通して全面的に組み上げなおしたものである。