チョムスキー
Chomsky(1982)によれば,人間は,「他のいかなる有機体とも根本的に異なって」おり,た
とえば,「歴史を持っているただ1つの有機体」である。このことは,「広大な範囲の思考を表現する能力(ability)」と関係がある。人間言語が持っている「離散無限性」という特性を持っている「動物のコミュニケーション体系」はない。
「思想の中に入っている要素的な素材が原始的で,他の動物に利用可能」であってもおかしくない。すなわち,たとえば,「知覚に関与する範化あるいは対象認定が,たくさんの有機体の間で類似している」ということが,申し分なくありうる。このことから,人間以外の種には何かが欠けているに違いないということになるが,それは,「生得的言語能力の計算的側面」である。高等な類人猿も,「人間言語の計算的構造の初歩さえも発現させる能力(capacityを欠いている」。「人間言語の最も基本的な諸特性(たとえば,離散的無限(discrete infinity)の文を生成する,回帰的な(recursive)埋め込み(embedding)の使用)でさえも,類人猿の諸能力(capacitiesを超えている」のである。
離散無限性(discrete infinity)とは、連続的ではない、離散的な(つまり、一つ一つ数えることができる)有限個のシンボル(言語記号)を結合し、その操作を無限に繰り返すことによって言語表現の生成を可能にする「ことばの性質」です。この性質は、ことばを無意識に使っている私たちにとって当たり前のことですが、離散無限性のメカニズムは何か?と問われれば、理論言語学者を除く、ほとんど全ての人が答えに窮(きゅう)してしまうでしょう。他の動物のコミュニケーション・システムと比較すると、この性質はヒトという種にのみ備わっているものだということがわかります。したがって、動物のことばとヒトのことばを区別する上でも重要な性質となっています。(下記画像引用) https://scrapbox.io/files/653145c064a797001b45f0c7.png
チョムスキーのユートピア
確かなことは人間の根本的要求は、創造的な仕事にあります。つまり諸制度によって恣意的に制限されることのない人間本性の基礎は、創造的な仕事を必要とすることです。慣習による制限のない自由な創造が人間の根源的欲求なのです。
そんな「抑圧、圧政、破壊」などを乗り越える手法論として
フーコーの権力論
「地方自治体、警察、軍隊などの特殊な組織」だけが政治権力ではないという。
大学
教育システムはある特定の社会階級の権利を保持し、同時に他の社会階級をその権力から排除する
精神医学
精神医学は政治権力を特定の社会集団に与えるような一つの方法でもある。
そして正義も同じであるとし、フーコーの立場を明らかにする。
私が思うに、我々のような社会において本当の意味での政治的な仕事とは、一見、中立性で独立したように見える諸制度の働きを批判することにほかなりません。政治的暴力がいつもそうした諸制度を通じて目に見えない形で行使されているということを批判〜することで仮面が剥がされ、〜諸制度と戦うことができるようになる〜もし我々が性急にも未来社会の輪郭と原則を定義しようとしたら、それも我々の社会において行使されているあらゆる政治権力を批判することなしにそうしようとするならば、そうした権力は再構築される危険があるでしょう。
そしてチョムスキーを批判する
例えばあなたのいうようなアナルコ・サンディカリズムという高貴なシステムにおいてでさえ、そうなのです。
対してチョムスキーは下記のように整理し、自身の立場を明らかにする
フーコーの警告
そしてまた上記に対してフーコーは「少し危険ではありませんか?」と問う。
もしあなたが言うような、人間の本性というようなものが存在するとしたら、〜もし人がそういうものを認めてしまうと、人間の本性というものを定義してしまう危険性がないでしょうか?その人間の本性とやらは理想的であり真であり、しかし今までずっと隠され抑圧されてきたものらしいのです。それも我々の社会、文明、文化から借りてきた用語で人間の本性を定義しようとする。それが「人間の本性」という考えに潜む危険性なのです。〜ご存知の通り、毛沢東はブルジョワジーとプロレタリアートという二つの人間の本性を区別しました。
そしてこれに対し、チョムスキーは暫定的に選択をしていくのが大事であると下記のように語る。
はっきりした行動を取るにも、一種のなんらかの危険が伴うわけです。その反面、その行動をとらないことにも危険が伴うと思います。〜そういった不安と対峙する中で、人は何かしらの行動の選択をしなければならない。確かに我々の「人間的本能」に対する考え方は、部分的に社会による刷り込みによって限定され、我々個人個人の性格的欠損によって束縛され、そして我々の今いる学術的文化そのものによって縛られていると思います。ですがそれと同時に、いくら馬鹿げた遠くの目標に向かっていくとしても、それに向かっていくという何らかの方向性、こういったものが非常に大事であると考えています。その過程の中で、達成可能な目標を達成するには必要です。つまり、例え不完全な知識しか持っていなくても、独自の社会理論を推移し、創り出すくらいの大胆を備え、それでいてそれが当初の目標から大きく外れた〜可能性に対してもしっかり間違いを受け入れる心構えが必要であると思います。
アプリオリな定式化の批判
しかしいずれにせよ、私には「正義」という概念自体が階級社会における抑圧された階級による主張であり、その正当化のために使われるのではないか、という風に感じられます。〜階級分別の存在しない社会ならば、もしかすると正義という概念がもう使われなくなる可能性があると思います。
これに対して明らかに対応する考えを見せる
これに関してはどうしても同意できませんね。私には、絶対的な価値観のなかに、絶対的な基盤を描写できないので、あまり突っ込まれると困りますが、基本的に人間の本質を基にした絶対的な価値観の中に、確かに正義という概念が存在し、そして我々の現在の正義というシステムを単なる階級抑圧のためのシステムであると考えるのは、早急すぎると思います。むしろ、階級抑圧のためのシステムも含め、他の種類の抑圧のためのシステムも含みながらも、それと同時に人間にとって価値のある「正義」や「尊厳」、「愛」や「やさしさ」や「同情」という概念も存在するのではないか、と思います。