ダマスキオス
『パイドン注解』
魂の治療というソクラテス的地平
ニーチェは「「クリトンよ、医神アスクレピオスに鶏を一羽捧げなければいけなかった」と。この滑稽でかつ恐るべき「臨終の言葉」は、聞く耳のある者にはこう響く。──「クリトンよ、生とは一個の病気なのだ!」と」などと、ソクラテスの最後の言葉から生一般の病める性質と、それゆえに治療=救済を冀求するそれをみいだした。これはダマスキオスにも共有された解釈である。注解のIにて彼は次のようにいう。
なぜ彼は、アスクレピオスに鶏を返し与えるのか?-それは彼が、生成の世界で魂が患っていまった病気を癒すためではないか。また『神託』(後二世紀の『カルデア神託』)に基づけば、おそらく彼自身もアポロン讃歌を歌いながら、自分に固有の起源へと駆け戻って行きたいのであろう。
また注解のIIでは次のようにもいう。
なぜ彼は、アスクレピオスにこの捧げ物の借りがあると言ったのか、そしてなぜ彼は、最後にこの言葉を口にしたのか?とはいえ、もし借りがあったのなら、彼は注意深い人だったから、忘れはしなかったであろう。-いや、それは魂が多くの労者から解放される際に、癒しの神の摂理を必要とするということではないか。それゆえ、『カルデア神託』もまたこう言っている、上昇してゆく魂たちはアポロン讃歌を歌うのだ、と。
Iにおける「生成の世界で魂が患ってしまった病気」、あるいはIIにおける「多くの労苦」といった表現は、ニーチェの「人生は一個の病気である」といった捉え方と同趣旨のものである。しかし注意すべきは、アスクレピオスに捧げ物をするという行為が、病気を癒すためのものであり、祈願の意味をもつと解されていることである。