サイード
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本書の方法論的特徴
オリエンタリズムという語の従来の意味:東洋ないし東洋趣味、に下記を示す語として用いた
西洋の東洋に対する思考の様式〜西洋の東洋に対する支配の様式
オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式なのである。この点に関し、私は、ミシェル・フーコーの『知の考古学』および『監獄の誕生』のなかで説明されている言説概念の援用が、オリエンタリズムの本質を見極めるうえで有効だということに思い至った。ということに思い至った。つまり言説としてのオリエンタリズムを検討しないかぎり、啓蒙主義時代以降のヨーロッパ文化が、政治的・社会学的・軍事的・イデオロギー的・科学的に、また想像力によって、オリエントを管理したり、むしろオリエントを生産することさえした場合の、その巨大な組織的規律=訓練というものを理解することは不可能なのである。私の見るところでは、オリエンタリズムがそれほどまで権威ある地位を獲得した結果、人は誰でも、オリエントについてものを書いたり考えたり行動したりするさいに、オリエンタリズムが思考と行動に加える制限を受け入れざるをえなかった。つまりオリエンタリズムのゆえに、何人も、オリエントをみずからの自由な思考と行動の対象とすることができなかったし、今もってなおできないでいるのである。しかしだからといって私は、オリエンタリズムがオリエントについて語りうるべきことを一方的に規制する、などと言っているのではない。むしろオリエンタリズムとは、「オリエント」なる独特の存在が問題となる場合にはいつでも、不可避的にそこに照準が合わせられる(したがってまたつねにそれに組み込まれることとなる)関心の網の目の総体なのである。