オリゲネス
エウセビオス『教会史』六巻
オリゲネスは、わたしたちを攻撃するエピクロス主義者のケルソスが著した『真の言葉』と題したものに反論する八つの文書を(...)書いた。
『ケルソス駁論』
三巻
アスクレピウス対キリスト
オリゲネスは『諸原理について』にも然り、そして本書でも罪=病、救済=治療のアナロジーをその根幹としてみいだす。それは二巻において批判される、ケルソスらの偏屈なキリスト教教義のきりだし方への批判に表れている。「この人々は、「わたしは打つであろう」という言葉は聞いても、「わたしはまた癒すであろう」という言葉は見ないのである。このことは、ある医者によって語られることと同様であり、医者は身体やひどい傷を切開し、それらから有害で健康の妨げとなるものを摘出するのであり、彼は苦痛を与え切開を行うのにとどまらず、治療によって身体を、目指す健康へと回復させるのである。さらに彼らは、「なぜなら、彼は傷ませ、そしてふたたび回復させるという表現の全体を聞かずに、「彼は傷ませた」という部分だけを聞いたのだ」。
こうして治療のアナロジーでイエスを理解するオリゲネスは、異教の救い主兼癒し手であるアスクレピオスの崇拝に対置する存在として、医師なる神としてのイエスという像を以下のようにうちたてる。
アスクレピオスについても、「ギリシア人および非ギリシア人の非常に多数が、幻影ではなく、アスクレピオス自身が癒しや有益な業を行い、未来の出来事の予告をするのが、かつても現在でもしばしば目撃されるということに同意している」と語られるときには、ケルソスはわたしたち信ぜよと要求する。もしわたしたちがこれらを信じるのであれば、彼はイエスを信じるわたしたちを断罪することはない。だが他方弟子たち、つまりイエスの不思議な業(テラスティア)を目撃し、自らの良心(シュネイデーシス)の公正さをはっきりと証明した人々に対してわたしたちが、書かれたものを通じてその良心を見いだすことができる限り、彼らの潔白を認めるゆえに彼らに同意するなら、ケルソスから愚か者と呼ばれてしまうのだ。しかし彼は自分が言うところの、言表しがたいほどの「アスクレピオスに同意するギリシア人および非ギリシア人の非常に多数」の存在を証明することはできない。実際もしも彼がこれを神聖であるとみなすならば、イエスに同意する〔イエスの名を告白する〕言表しがたいほど多数のギリシア人と非ギリシア人の存在を、わたしたちははっきり証明するものである。ある人々はこの信仰を通じて何らか奇跡的なものを受け取ったことのしるしを、彼らが人々を癒したことで示すが、彼らは癒しを必要としている人々に対し、万物の上に在す神とイエスの名を、彼の歴史記述とともに呼ぶ以外のことはない。実際わたしたちもこれらによって、かつて人間でも精霊(ダイモーン)でも癒すことのなかった重い症状、忘我状態、狂気その他の無数の病から解放した多くの人々をこれまで目にしてきた。
こうして治癒神のオルタナティヴとして並置されたイエスに対し、アスクレピオスの低劣さを提示し、イエスを上位神として配置することを試みる。
アスクレピオスと呼ばれる精霊(ダイモーン)なる一人の医者が身体を癒すことを認めるとしても、このことやアポロンの予言(マンティア)に驚嘆する人々に次のように言いたい。もしも身体の癒しが倫理的に中立(メソン)で、その行為は善き人々のみならず悪しき人々にも及ぶのであれば、さらに未来の出来事の予知もまた倫理的に中立なものであれば−というのも予告をなす人間が必ずしも善さを示すとは限らないのだから−、癒しや予告をなす人々がどのような訳で悪人などでは全くなく、万事につけて善き者であることを示し、神々とみなされることからも程遠くないかを示していただきたい。しかし癒しや予知をなす人々が、生きるに値しない多数の人々をも癒したことが語られているゆえに、彼らが善き人々であるのを証明するのは不可能である。賢明な医者であれば、それらの人々が送る生はふさわしいものではないゆえに、癒しをすることを望まなかったはずである。
また次のようにもいう。
ピューティオス〔デルポイのアポロンの呼称〕の神託(クレースモス)のなかに、ある種の道理に反した命合が見いだされる。目下のところはそれらのうちから二つを例に挙げよう。まず、拳闘家であると思われるクレオメデスは、神々と等しい崇敬を受けるように命じられていた。わたしにはその理由がわからないが、おそらく彼の拳闘術に神聖さを認めたためであろう。だがピュタゴラスにもソクラテスにも、この拳闘家が受けたような崇敬は与えられなかった。また「ムーサたちに仕える」アルキロコスのことも告げられている。彼がその詩作の技術を証明したのは、劣悪かつ最も放縦な主題においてであり、その品性(エートス)が放縦で汚れていることを実証したというのに、神々とみなされるムーサたちに仕える限り、神聖なものと唱えられたのだ。しかし凡人ですら、節度と徳(アレテー)を備えていない人々を神聖であると主張するのかどうか、またよき市民がアルキロコスの神聖ならざるイアンボス調の詩に含まれているような内容を語るのかどうか、わたしにはわからない。そこでもしアスクレピオスの医術とアポロンの占い術(マンティケー)からは何ら神的なものは生じていないことが明らかであれば、それらが実在していることは認めるにしても、彼らを清浄なる神々として祟めることは、どうして道理に適っているだろうか。とりわけ地上的身体から浄化された占いの霊なるアポロンが、ピュートーの洞窟内に座すいわゆる女予言者のなかに、その性器を通じて入るということに至っては......。だがわたしたちの方では、イエスとその奇跡力についてこうした類いのことを思い描きはしない。人間の傷と死を受け入れうる人間的質料から成り立っていた身体は、処女から生まれたのだから。
『諸原理について』
https://scrapbox.io/files/681d84bb56583cc44b607035.png
一巻 神(第一原理)、精神的諸存在(天使・英知)について
二巻 物質世界、罪、救いについて
魂の医師
罪を犯した者たちは苦い薬剤によって治療される必要があり、そのために矯正を目指した、今は苦しいと感じられる処置を彼らに対して[神は]施している[と答えねばならない]。(...)確かに、我々には秘められた他の多くの[罰]がある。それらは、我々の魂の医師である方だけがご存じである。食物と飲み物を通して自分の体に蓄積した疾患に対処して、体の健康を回復するためには、時としては、苦くて強い薬による治療を必要とするが、それだけにとどまらず、その疾患の状態が襲求する場合には、さらに冷酷なメスによる過酷な切開が必要となる。これらの手段によっても病気の症状に変化が見られなければ、最後の手段として火で焼灼することになる。このことを考えれば、種々様々な罪と旨を集積した我々の魂の罪悪を洗い去ろうと欲する我々の医師である神は、このような懲罰となる治療を施し、その上さらに、魂の健康を失った者らには火による責め苦を加えられることもよく理解できるはずではなかろうか。
このことを想像させる表現(imagines)が聖書の中にも述べられている。例えば、申命記においては、罪人たちを熱と悪寒と黄疸で罰し、目をくらませ、精神を錯乱させ、麻痺と盲目、腎臓の衰弱によって苦しませると、神聖な言辞(sermo divinus)は威嚇している。それ故、暇に任せて[聖]書全体から罪人たちに対する威嚇が肉体の病気の名で言及されている箇所をすべて集めてみれば、魂の悪徳や罰がそれによって比喩的に(hguraliter)語られていることがわかるであろう。医師が治療によって健康を回復させようとして、病んでいる者を治療するのと同じ目的で、神が堕落した罪人に対処されることを、預言者エレミヤを通して命じられたことが暗示している。即ち、「神の怒りの杯がすべての民に回されるように。それは彼らが飲んで、正気を失い、[悪いものを]吐き出すためである」という命令である。ここには、飲むのを拒む者は浄められない、という威嚇が込められている。当然、ここから神の復讐の怒りは魂の浄化に役立つものであると理解される。また、火を通して施されると言われる罰でさえも治療のために用いられることをイザヤが教えてくれている。彼はイスラエルについてこう言っている、「[主は]シオンの息子と娘の汚れを洗い、審判の霊と焼き尽くす霊によって、彼らの内から血を浄めてくださる」。そして、カルデア人については「お前は火の炭を持っている。その上に座るがよい。それはお前の助けとなるであろう」と言い、他の僧所では「主は燃える火をもって彼らを聖別されるであろう」と言っている。さらに、預言者マラキも言っている、「主は座して、金や銀のように、ご自分の民を精錬されるだろう。ユダの浄化された子らを精錬し、浄化し、溶解されるであろう」
三巻 徳、自由(人間の神への回帰)について
四巻 全体の方法論的反省、源泉について