オリゲネス
オリゲネスは、わたしたちを攻撃するエピクロス主義者のケルソスが著した『真の言葉』と題したものに反論する八つの文書を(...)書いた。 三巻
アスクレピウス対キリスト
こうして治療のアナロジーでイエスを理解するオリゲネスは、異教の救い主兼癒し手であるアスクレピオスの崇拝に対置する存在として、医師なる神としてのイエスという像を以下のようにうちたてる。 こうして治癒神のオルタナティヴとして並置されたイエスに対し、アスクレピオスの低劣さを提示し、イエスを上位神として配置することを試みる。
アスクレピオスと呼ばれる精霊(ダイモーン)なる一人の医者が身体を癒すことを認めるとしても、このことやアポロンの予言(マンティア)に驚嘆する人々に次のように言いたい。もしも身体の癒しが倫理的に中立(メソン)で、その行為は善き人々のみならず悪しき人々にも及ぶのであれば、さらに未来の出来事の予知もまた倫理的に中立なものであれば−というのも予告をなす人間が必ずしも善さを示すとは限らないのだから−、癒しや予告をなす人々がどのような訳で悪人などでは全くなく、万事につけて善き者であることを示し、神々とみなされることからも程遠くないかを示していただきたい。しかし癒しや予知をなす人々が、生きるに値しない多数の人々をも癒したことが語られているゆえに、彼らが善き人々であるのを証明するのは不可能である。賢明な医者であれば、それらの人々が送る生はふさわしいものではないゆえに、癒しをすることを望まなかったはずである。
また次のようにもいう。
ピューティオス〔デルポイのアポロンの呼称〕の神託(クレースモス)のなかに、ある種の道理に反した命合が見いだされる。目下のところはそれらのうちから二つを例に挙げよう。まず、拳闘家であると思われるクレオメデスは、神々と等しい崇敬を受けるように命じられていた。わたしにはその理由がわからないが、おそらく彼の拳闘術に神聖さを認めたためであろう。だがピュタゴラスにもソクラテスにも、この拳闘家が受けたような崇敬は与えられなかった。また「ムーサたちに仕える」アルキロコスのことも告げられている。彼がその詩作の技術を証明したのは、劣悪かつ最も放縦な主題においてであり、その品性(エートス)が放縦で汚れていることを実証したというのに、神々とみなされるムーサたちに仕える限り、神聖なものと唱えられたのだ。しかし凡人ですら、節度と徳(アレテー)を備えていない人々を神聖であると主張するのかどうか、またよき市民がアルキロコスの神聖ならざるイアンボス調の詩に含まれているような内容を語るのかどうか、わたしにはわからない。そこでもしアスクレピオスの医術とアポロンの占い術(マンティケー)からは何ら神的なものは生じていないことが明らかであれば、それらが実在していることは認めるにしても、彼らを清浄なる神々として祟めることは、どうして道理に適っているだろうか。とりわけ地上的身体から浄化された占いの霊なるアポロンが、ピュートーの洞窟内に座すいわゆる女予言者のなかに、その性器を通じて入るということに至っては......。だがわたしたちの方では、イエスとその奇跡力についてこうした類いのことを思い描きはしない。人間の傷と死を受け入れうる人間的質料から成り立っていた身体は、処女から生まれたのだから。
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一巻 神(第一原理)、精神的諸存在(天使・英知)について
二巻 物質世界、罪、救いについて
魂の医師
罪を犯した者たちは苦い薬剤によって治療される必要があり、そのために矯正を目指した、今は苦しいと感じられる処置を彼らに対して[神は]施している[と答えねばならない]。(...)確かに、我々には秘められた他の多くの[罰]がある。それらは、我々の魂の医師である方だけがご存じである。食物と飲み物を通して自分の体に蓄積した疾患に対処して、体の健康を回復するためには、時としては、苦くて強い薬による治療を必要とするが、それだけにとどまらず、その疾患の状態が襲求する場合には、さらに冷酷なメスによる過酷な切開が必要となる。これらの手段によっても病気の症状に変化が見られなければ、最後の手段として火で焼灼することになる。このことを考えれば、種々様々な罪と旨を集積した我々の魂の罪悪を洗い去ろうと欲する我々の医師である神は、このような懲罰となる治療を施し、その上さらに、魂の健康を失った者らには火による責め苦を加えられることもよく理解できるはずではなかろうか。 三巻 徳、自由(人間の神への回帰)について
四巻 全体の方法論的反省、源泉について